「佐伯クリーニング」店主・佐伯昌二さんのはなし

2026.05.15

今は亡き佐伯クリーニング店3代目店主・佐伯昌二さんは、すれ違うたびに声をかけてくれた。ねぎらいの声をかけてくれることもあれば、軽口を叩くときもあるし、明治時代までタイムトリップして佐伯さんが“聞いた”という昔話にまで話が及ぶこともしばしばであった。おじいさんの代まで話はさかのぼり、それをまるで自分が見聞きしたように語るものだから、どの時代の話をしているのか、よく混乱したものだ。それでも佐伯さんと話をするのが私はとても好きだった。見たことのない塩屋のまちの風景がみえてくる。聞いたことのないあの人の声が聞こえてくる。そんな感覚がいつもあった。最後の取材を行った日、作家の森まゆみさんが同行して佐伯さんに話を聞いてくださった。森さんの頭の中には世界史や日本史がぜんぶ入っていて、佐伯さんと話をしながら昔のまちの空気をささっとつかんでいくような取材だった。そのテンポのよさに恍惚としながら話に耳を傾けた。出産直前の大きなお腹を抱えてのぞんだ、思い出深い取材であった。

話者:佐伯昌二さん
取材:森まゆみさん、シオヤプロジェクト
執筆:山森彩(ユブネ/シオヤプロジェクト)

(撮影:片岡杏子、2015年)

水兵さんだった祖父が始めたクリーニング屋さん

佐伯クリーニングは、1895年(明治28年)に佐伯昌二さんの祖父・佐伯武松さんが創業した。もともと佐伯家は国道2号線沿いにあったが、“国鉄”(*1)が拡大するタイミングで立ち退きを余儀なくされ、昭和のはじめ頃に、JR塩屋駅のやや北側に木造の店舗兼住宅が建てられたという。

佐伯 ここに来てもう100年くらい。祖父の代は半農半漁やったと聞いてます。彼は日清戦争(1894〜95年)で海軍に駆り出されて、水兵さんをしていました。満期除隊になって帰ってきて、商売をはじめたと聞いてます。水兵さんのときにクリーニングの技術を身につけたんです。兵隊に行ったら、下着から上着まで全部自分で洗濯せんならん。着るもんを畳んで、上にシャボン(石鹸)を置いて、少しのぬるま湯をかけて、そしてその上にウォータータップ……綿でできたバケツのことです。そのバケツで上から押したら、シャボンが下にしゅんでいくんです。船の上では真水は宝もんですから、水は少ししか使わせてもらえません。ゆすぐ(すすぐ)のはどうやったかわかりません。

1890年以降、塩屋・須磨は外国人に人気のリゾート地としてにぎわっていた。武松さんが日清戦争から戻った当時、日本人の日常着は着物だったが、洋服を着ている外国人がいることを見込んでクリーニングの商売をはじめたそうだ。

佐伯 明治時代には、クリーニング屋のことを「洗い屋」と言いよった。聞いた話では、昔は服に石鹸をつけて蒸すこともしとったようです。それを石の上に置いて“ポンコツ”いう丸太で叩いて、石鹸と一緒に垢を落とした。絹は叩くと繊維が折れるから手で揉んでいたそうです。

大正時代になると、“ワッシャ”という洗濯機が入ってきた。その頃にはここ(お店)に職人が4人おって、仕上げよった。大正時代になると、日本人でも、洋服を着て、帽子をかぶって、頭に鳥の羽をつけるハイカラな人もおったと聞いてます。

人手不足のときは横浜から職人を連れてきていたみたいです。日本のクリーニングの最初(発祥)は横浜と言われています。

それにしても、西洋人のズボンは長い、長い。プレスは1回でできませんから、なんべんもやります。それでももちろん、値段は一緒です。

幼少期、店の手伝いをしながら聞いた昔話あれこれ

(撮影:森本アリ、2019年)

佐伯さんが店の手伝いをし始めたのは、1950年頃で、小学校4年生〜5年生のとき。明治・大正時代の話をよく知っているのは、子どもの頃にお父さんから聞いたお話を覚えているから。

佐伯 戦後、ワイシャツをたくさん積んで親父が自転車で坂を登るのをよう後押ししました。そういう手伝いをしている時に、親父から話を聞いて、いろいろ覚えてます。

なお、佐伯さんは9人兄弟の3人目で長男。戦前に“国民小学校”に入学し、終戦後、“塩屋小学校”を卒業した。

佐伯 子どもが9人もいて、母は育児に手がかかるから、父と姉2人、僕の4人で家業をがんばったんです。他にクリーニング屋になった兄弟はおりません。長男は後を継いで当たり前の時代ですから、阿吽の呼吸で継ぐことになっていました。

幼い頃の外国人との思い出

1930年頃から、ウィリアム・ジェームス氏により外国人住宅地が開発され、塩屋に定住する外国人が増えていった。父の末男さんがクリーニング屋を営んでいた頃である。

佐伯 西洋人が船に乗って塩屋の沖を通ったときにここが一番空気がきれかった。だから、自宅は居留地に、別荘は塩屋に建てた。そうやって祖父の武松が言うとったと親父から聞いてます。

エブラハム(*2)の家には仕事でよく行きました。今は空き地になっています(*3)。僕が親父の手伝いをしていた頃は、もう亡くなっていなかったけど、奥さんはおまめさんという日本人でした。その当時は、塩屋の浜に競馬場もあった。イギリス人は競馬が好きでねぇ。

ゴンロクさんと呼ばれていたアチャーソンというイギリス人もいました。居留地の自宅の番地が56番地だったから、ゴンロクさん。舌が回らへんから、アチャーソンと呼べなくて、そういう名前がつきました。

(画像提供:村上忠男)

エブラハムさんの息子さんとは歳が近かったこともあり、よく一緒に遊んでいた。戦後も文通が続いていたという。

佐伯 言葉(英語)がわからへんから会話はできひんけど、それこそ阿吽の呼吸いうんか、目と目で理解しあったもんです。周りにおるベビアマ(*4)さんやコックさんが手助けしてくれることもありました。終戦後、2、3年はイギリスから手紙をくれよりました。英語で読めんからね、学校の先生に翻訳してもらって、返事は僕が言うたことをまた翻訳して書いてもらって。(*5)

戦後といえば、ジョーイ(*2)が来た。ジョーイは、戦後、イギリスに戻ったけど、進駐軍として再び日本にやってきて、神戸の元町に住んでいたそうです。戦後、「スエ(末男)おるか」と、父を訪ねてうちにきました。兵隊2、3人を連れて、ジープでこの狭い道に入ってきた。僕が小学校2、3年生の頃やから、昭和22年(1947年)くらいのことやと思います。

終戦後、生活物資が不足していた時代には、海沿いにあったビーチクラブに配給物資が集まっていたという。

佐伯 物資は日本人が配達しとったんです。配給を担当しとった東(ひがし)さんという人が「クリーニングお願いね」と言いながらシーツの中にパンとか食べるもんをこっそり入れて、分けてくれたんを覚えてます。僕の母と同じ、和歌山からきた女の人でした。

社長さんに教わったり、叱られたり

佐伯さんが子どもの頃は、塩屋の多くの商店が外国人や日本人の富裕層を対象に、御用聞きや配達をしていた。

佐伯 4丁目や5丁目には日本人の大きな邸宅や別荘もありました。鈴木商店の番頭だった南前(みなみまえ)さんいう人なんかは、たまにうちの店に来て父と立ち話をすることもありました。骨のある話をする人で、晩ごはんを食べる時に、親父が僕らに向かって「今日の南前さんの話わかるか?」と聞かれたもんです。

僕らは人の家におじゃまさせてもらうことがよくありますが、第六感いうんでしょうか。初めての家の敷居をまたいだ時に、なんとなく温かみがある家だなぁと感じる。そうするとやはり、その家の人と話をしても温かいもんなんです。

客商売をしていると、上から目線で話す人も多いんです。でも、苦労した人は違いますね。小泉製麻の創業者の小泉新助さんや青山特殊鋼の青山国蔵さんなんかは、理知に富んだ立派な人たちでした。私たち商売人が自転車で御用聞きに行ってあいさつをしたら必ず足を止めて「ご苦労さんです。気をつけて行ってください。」と声をかけてくれたのを覚えています。人の気持ちを読んでくれる人たちやなぁと思っていました。

そやけど青山さんは厳しいもんで、子どもの頃、下手なこと言うて、青山さんのお孫さんと2人してえらい叱られたことがあります。庭の砂利に正座させられて半日叱られた。今でも忘れません。足がフラフラや。そやけどまた午後に行ったら「ご苦労さん、これからは気をつけてな。」と言われておしまい。あっさりしたもんや。

浜で塩を作っていた時代もあった

現在はバイクで行う配達も、昔は自転車だった。塩屋の急坂や路地、昔の舗装されていない道を重い荷物を持って自転車で行ったり来たり。

佐伯 須磨にみどりの塔(*6)いうのがありますね。東はあの塔の上(北)の一ノ谷、西は垂水、北は下畑まで。(塩屋町)2丁目の一番上の家にもよう行きました。魚屋も肉屋も八百屋も皆、午前中に注文をとって、午後に品物を持っていくんです。僕はずぼらやからメモなんかとらんと、白い布を持って行って、一軒ごとに洗濯物を畳んでお預かりして。風呂敷がのうなったら(なくなったら)また店に戻ってね。

当時は草がぼうぼうで、あとでズボンについた草の実をとったもんです。今はオートバイがあって助かります。

一ノ谷の山をのぼるんはしんどいよ。今でこそアスファルトが敷いてあるけど、昔は砂利道で草履がずるっと滑るんです。自転車ごと転んで、顎を怪我することもありました。でもね。自分が転げても品物は守る。職人の意地です。丁寧に仕上げたものを汚してはいけませんから。そんなわけで学校も行かんと働いてました。

ところで、佐伯さんのご自宅は、店舗兼住宅になっている。店の外から見上げたら、3階部分には大きなベランダがある。

佐伯 この家は風通しがええんです。それと3階に物干しがある。昔は滑車をつけて屋上まで洗濯物を上げてたんです。今は8割が乾燥機ですけど、太陽に干すんが一番いいんです。日光消毒になるし、日にあてると白いもんは白くなるんです。1階の角の四角いとこはできたもんを吊りよったんです。いわゆる陳列棚いうんですか。上に窓が開いてるのは明るい方がいいからです。この家を建てた棟梁はわかりませんが、指物は和歌山から来た母のいとこの大工が作ったもんです。

旧グッゲンハイム邸の前の浜で塩作りをしていたという昔話を聞いたことがあったので、佐伯さんにご存知かどうかたずねてみると。

佐伯 戦後までかな。広い砂浜に海水を撒いて、濃くして煮詰めて作っていました。

記憶力がとてもいい佐伯さん。話は尽きない。

佐伯 思い出いうたら、僕らは学校へ行くのに藁草履を履いてましたけれど、外国人の人におさがりの靴をもらうこともありました。大きいし履き慣れないから、靴を履いて走るとポーンと靴が飛んでいくんです。

あとは……昔は2丁目の水を上げるためのポンプ場があったんです(*7)。あそこで、魚屋とか八百屋とかと一緒にそこに寄って悪いことばっかりしよった。

ちなみに、魚屋さんとは、「魚友」の松本幸二郎さんのこと?とお聞きすると。

佐伯 そうそう。あれはわるい男。大人になって優しうなったけど、あれはゴンタロ。

塩屋の先人たちに話を聞いていると、こうやって、おさななじみたちの悪口を言い合うことがある。取材の場だから、おそらくちゃんと話そうとしてくださっているのだけれど、時折、やんちゃな顔を見せながら、子どもの頃の話をぽろっとこぼす。私がそれまで知らなかった表情を発見できる、こういう瞬間が私は好きだ。

生前に佐伯さんが乗っていた配達用のバイク。

そして、佐伯さんもまた、記事の公開を待たずにお亡くなりになった。私にとって、そこ(お店)にいて当たり前の存在だった佐伯さん。普段は軽口を叩いていても、クリーニングの相談をすれば職人の顔。絶望的な気持ちで持ち込んだ洋服の大きなシミをとってくださったこともあった。佐伯さん、最後までおもしろいお話を聞かせてくださりありがとう。いつかお会いできる日がきたら、また昔話と悪口、聞かせてもらおう。

*1:山陽鉄道(現・JR山陽本線)の塩屋駅は仮停車場として1896年に開設された。1934年に須磨駅から明石駅間で電気運転を開始。(参考:「塩屋見聞録」
*2:イギリス人の貿易商、ジョーイ・エブラハムさん。のちに帰化して箙護衛(えびら・じょうえ)さんに。
*3:異人館クラブがあった
*4:ベビーシッターのこと。
*5:他のトークイベントでの佐伯さんの発言記録によると、「東さんが翻訳した」という説もある。
*6:須磨浦公園の東端にあるモニュメント。
*7:塩屋町2丁目の山上にあった貯水場のことかと思われる。