塩屋文学全集[二] トーク&持ち寄り朗読会レポート

2026.03.27

2025年12月6日(土) 神戸塩屋 旧グッゲンハイム邸

トークゲスト 木下直之
静岡県立美術館館長/塩屋文学者
1954年静岡県浜松市生まれ。東京藝術大学大学院中退、兵庫県立近代美術館学芸員、東京大学総合研究博物館助教授、東京大学大学院教授(文化資源学)を経て、現職。19世紀日本の文化を研究。2015年春の紫綬褒章。著書に私家版『シオヤライフ』(1985年頃)、『ハリボテの町』(朝日新聞社・1996年)、『近くても遠い場所ー 一八五〇年から二〇〇〇年のニッポンへ』(晶文社・2016年)、『木下直之を全ぶ集めた』(晶文社・2019年)などの塩屋文学がある。1981年秋~1997年塩屋在住。

司会 サラ・デュルト
塩屋文学編纂員/シオヤプロジェクト
塩屋出身、塩屋小学校卒業、塩屋中学校卒業、星稜高等学校卒業、大阪大学文学部卒業、大阪大学大学院文学研究科修了、東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学修了。大原美術館で学芸員として10年ほど勤務ののち、塩屋に戻る。「塩屋文学」について考えはじめたのは2022年の4月頃から。塩屋在住。

【塩屋文学とは?】
文中に「塩屋」という言葉が出てくれば、それはすなわち「塩屋文学」。「塩屋」といっても、それが本当に塩屋のことなのかを検証する。違えば、どの「塩屋」であるかを明確にし、塩屋であれば、正式に「塩屋文学」と認定し、かつ全て集めてみようという壮大な計画が『塩屋文学全集』。

古今東西の文学に「塩屋」を渉猟すること3年半、今までに見つかったタイトルは30冊以上。それらについては、順次シオヤプロジェクトのサイトで公開していっているのでそちらをご参照いただくとして、「塩屋」という言葉こそ出てこないが、限りなく塩屋に近い、あるいは塩屋を思わせる文学までをも含めると、かなりの数にのぼる。まだまだ世に知られていない塩屋文学の名品は多く、枚挙に暇がない、はずだ。

 


 

ーー2022年にはじまった「塩屋文学」プロジェクトでは、2022年7月に「塩屋文学を読む」、2023年に「塩屋文学全集[一]」といったイベントを実施してきました。その第三回目の開催となるのが、今回の「塩屋文学全集[二]」。当日は午前中に「塩屋文学散歩」と題した、塩屋文学に登場する場所をめぐるツアーも開催。志賀直哉や内田百間の作品にちょっとだけ登場する塩屋の港や、庄野潤三にも書かれた塩屋の浜、西東三鬼や陳舜臣といった神戸ゆかりの作家から、妹尾河童、高村薫、玉岡かおる……等々、多くの作家に言及された塩屋のさまざまな場所を歩きました。そして午後からは、塩屋文学編纂員のサラ・デュルトと、ゲストの木下直之によるトークが行わました。そのほか参加者が見つけた塩屋文学の朗読も含め、4時間近くに及ぶ熱のこもったトークセッションになりました。以下にイベントのレポートを掲載します。

サラ・デュルト:
本日はお越し下さりありがとうございます。実は今朝10時から12時まで「塩屋文学散歩」という会をいたしまして、今までに紹介した文学を中心に、登場する「塩屋」が実際にどこなのかをみんなで歩いて見てまわりました。今日はそのままトークにご参加いただいている方も多いと思います。
ところで、今回はじめて「塩屋文学」という言葉を聞かれた方はいらっしゃいますか?(約半数が挙手) では塩屋在住の方はどれくらいでしょう?(約3分の1が挙手) ということは塩屋ではないところからわざわざ塩屋文学について聞きにいらしていただいた方がたくさん……(笑)。ありがとうございます。
今日はまずこの塩屋文学についての経緯をご説明させていただいて、私が最近になって見つけた塩屋文学の紹介のほか、塩屋文学者でいらっしゃいます木下(直之)先生にご登壇いただきましてお話いただきます。その後休憩も入れまして、みなさまからお持ちいただいた塩屋文学を紹介していただきます。

まず、最初に私が塩屋文学なるものを提案しはじめたのが2022年の4月ごろで、第一回目のイベントが「塩屋文学を読む」というものでした。

このときは井原西鶴の「好色一代男」(1682年)だったり、「源氏物語」(1008年)や「平家物語」(13世紀前半頃)、そのほかもう少し近代のものも紹介しました。ここでメジャーなものはカバーできたかなと思っていたのですが、その後もいくつか塩屋文学が見つかりまして、2回目の開催が2023年に開催した「塩屋文学全集[一]」でした。これは「全部集める」という意味で、このときから「全集」と名乗り始めました。

このときにも木下先生にはご登壇いただいたんですが、「塩屋」という文字がなくても限りなく塩屋に近い内容のものは「ニア塩屋文学」として認定していいんじゃないか、といった話も出ました。また塩屋文学者である先生ご自身が書くと仮定した塩屋文学の目次や「塩屋語辞典」という「塩」を用いた言葉の造語集の編纂もご提案いただきました。また、このころからシオヤプロジェクトのウェブサイトのほうにも塩屋文学をコメント付きで個別にアップしていってますのでご参照ください。

こちらが今回の第三回目のフライヤーで、書影をたくさん並べてますが、本当はもっとたくさんあります。

ーーこのあと、サラさんより「今まで塩屋文学として紹介したものに関しても見直さなければいけないのでは」ということで、復習としていくつかの塩屋文学を取り上げました。以下に要約します。
例えば、『源氏物語』はこれまでは塩屋文学ではないとしていましたが、「明石」の巻の終わりの方の文中に「境」の文字が出てきます。これは播磨の国と摂津の国の国境を示す意味で書かれており、その「境」とはまさに地理的に塩屋を意味するものであることから、改めて「源氏物語」は塩屋文学として認定してよいのではないか、という提案でした。
また、野口米次郎の『能楽論』(1919年頃)に出てくる能「松風」の「塩屋の女主人」というのは、以前『源氏物語』を塩屋文学ではないとした理由と同様に、塩を焼く小屋という意味で、地名を指しているものではないので塩屋文学ではありません。ただ、「松風」の舞台は須磨の浦、出てくる海人の姉妹、松風と村雨の幽霊のモデルは、塩屋の奥の多井畑の長者の娘、もしおとこふじであったと言われているので、当たらずも遠からずという点は指摘しておきたいということです。
正岡子規の「叙事文」(1900年)には、療養のために訪れた須磨のことが書かれており、そこに確かに「塩屋」が出てきます。
また現代の文学として紹介した平中悠一の「She’s Rain シーズ・レイン」(1984年)には、「塩屋」の文字は出てきませんが、明らかに塩屋付近の風景が描かれており、映画化(1993年)された際は実際に塩屋でも撮影されています。ただし、阪神間の私学に通う「街の子供」のデートスポットという添え物的扱いで、地名にも触れられていません。また映画化の際に音楽を担当した大江千里には「塩屋」(1987年)という曲もあります。ただし本人は塩屋には行ったことがないとインタビューで語っています。両者は同じ大学(関西学院大学)の卒業生で交流もあったようで、同じ時代の感覚を共有していたと言えるでしょう。
このほか、新たな「塩屋文学」ジャンルとして、川崎ゆきおや阿部共実の漫画に登場する塩屋、また「Japan Weekly Chronicle」(1900–1940)に登場する塩屋についても紹介されましたーー
これらについては、シオヤプロジェクトの「塩屋文学全集」のサイトにて順次紹介して行く予定。

サラ・デュルト:
さて、ここからは本日のゲストの木下直之先生にマイクをお渡しします。今回は「明治塩屋文学の世界へ」と題しまして、明治の塩屋文学に焦点を当ててお話いただきます。よろしくお願いいたします。

 

塩屋文学=20世紀文学?

 

 

木下直之:
こんにちは。木下です。今日は少し古いところを開拓しようということで「明治塩屋文学の世界へ」というタイトルをつけました。先程は源氏物語だとか、とんでもなく古い時代のことが話題に出ましたけれど、でも、その話を聞きながら案外通じる部分があると感じたんですよね。塩屋付近、つまり国境を示す「境」っていう言葉が出てきたけど、都、あるいは大阪の方から見ると「境」のあたりに対するイメージは結構昔からあって。 その辺は明治文学を見ていく中でも明確に出てくるんじゃないかと。ということで今日は是非一緒に明治の塩屋へ行ってみたいなと思います。
まずは、国会図書館のデジタルコレクションをちょっと手がかりにして、どのぐらい塩屋文学を見つけることができるのかをまずお話したいと思います。そこから明治の塩屋文学に絞り込んでいった時に、明治の塩屋ってどういうイメージだったのかが、おぼろげながら浮かび上がってくるんですね。あと、やはり塩屋文学について考える時に、すぐ隣り合っている、隣接している似非塩屋文学、偽物の塩屋文学というか、そういうのもちょっと視野を広げるとどんなことが見えてくるかなというのをお話しします。最後に塩屋にまつわる造語を集めた「塩屋語事典」を紹介します。

はじめに、国立国会図書館のサイトですが、これはもう本当に急速にデジタル化が進んで、すごいんですよね。で、デジタルコレクションで「塩屋」っていう言葉をたった 2文字入れると、もう本当に瞬時ですね、1秒もかからず検索結果が107,128件も出てくるんですよ。

 

ただ、これだけだと、ありとあらゆる「塩屋」がヒットする。それは神戸とは違う地名の「塩屋」であったり、また人名であったり、あるいはたまたま塩っていう字と屋っていう字が並んでしまったテキストであったりっていう。それでこの 10万件っていうのがここに示されているわけです。で、10万件の内訳ももっと細かく出てくるんですが、その中で「図書」っていうふうに絞り込むと、ざっと 7万件。その中に古典籍資料貴重書等120件。あとこれ面白いんだけど、博士論文が762件もある。塩屋研究者が762人出てくるんだけど、そんなにいるとはとても思えないので、これはまた違う塩屋を研究した論文だろうというふうに思います。
さらにこの図書の中で文学が 9670、芸術が 3668。もっと細かくいろんなカテゴリーで出てきます。これを「塩屋図書文学」って絞り込むと 9667件になりますね。さらにそれがどういうふうにカテゴライズされてるかっていうと、日本文学 989、詩歌 3223だから、やっぱり歌として生まれたのが結構あるなと。ただ、この時点でもまだこれが神戸の塩屋とは限らないですよ。
それで、この辺からだんだん大変になるんだけど、とりあえず年代も出てくるもんですからね。1800年から69年まで、ざっと江戸の後半ですよね。幕末って言ったらいいかな。そこで1件ね。それから1870年から79年、明治の初年で 3件、で、1880年から 89年に 117件ってちょっと増えてるなって感じがして。今日は明治塩屋文学が議題ですから、明治時代の塩屋文学に何があるのかっていうのを探し当てるわけですけれど。ちょっと細かく見ていくとですね、やっぱり 1900年代に入ってから小説が出てくるんですよ。言い換えると1900年代の 102件は全てが塩屋文学ではないですよ。まだそれはわからない。ただし、明らかにこの神戸の塩屋が舞台になっているのが、ここで既に何本が入ってくるので、結局、明治塩屋文学というのは、20 世紀文学なのではないか、というのが今日の差し当たっての結論です。
明治塩屋文学の誕生といえるのが1900年代のはじめ。これらは明らかに塩屋が舞台になっているんですね。かつ塩屋という言葉が入っている。多くはほんのわずか「塩屋」が出てくるだけだけど、それなりに多分重要な舞台として出てくるなという。それはさっきの境界線の向こう側っていうような、何かそういうイメージが、すごく強くあるんですよね。

この20世紀文学というのは新しい発見であり、今後使っていっていいんじゃないかっていう気はするんだけど。逆に言うと、20世紀文学研究の中に塩屋文学を組み込んでもいいかっていう。それでこのデジタルコレクションがとても便利なのは、塩屋っていう言葉がどこに出てくるかも明示してくれてるんですね。これ本当に楽に行けちゃうんですよ。皆さんも自分で国会図書館にアクセスしてやってみてください。ただ実はこれからが大変で、そこまではたどり着けるんだけど、具体的に読み込むのに結構時間がかかる。本当にこの塩屋がどういうふうにこの小説の中で扱われているのかっていう。

(ここでウィリアム・ラ・キューズ「隠れ蓑」(1906年)の、令嬢と地元漁師が出会う場面の朗読)

浮かび上がる明治大正の塩屋

そんなふうに探していくことができるんですね。そうすると、浮かび上がってくる塩屋像というのがあって、 20 世紀文学というか、 1900年というのは明治 33年ですから、明治の終わりからやはり大正にかけてですね、 1900年代、 1910年代、多分 20年代辺りで、塩屋がどういうふうに表現されているかというのを調べていけたら面白いと思います。
だから、もしまたこの塩屋文学のイベントが開かれるのであれば、次は大正塩屋文学を掘り起こしてこようかなとは思うんだけれど、実は 1917年は大正 6年なんで、もうこれ大正文学なんです。ただやっぱりこのあたりですごく塩屋のイメージが明確になってきた感じがするんで、今日はちょっとこれをご紹介しようと思います。それから、兵庫電気電気軌道会社沿線名称案内っていうのもこの年にヒットして。この頃に今の山陽電鉄が塩屋まで伸びてきたんですね。
昔の播磨と摂津の国の境界線を越えていくものとして、鉄道ってやっぱり大きいなというふうに改めて思うんですよね。ですから、鉄道の問題も視野に入れながら読み込んでいくことが重要かな思います。そして、土地的にこの頃についてすごく簡単にまとめちゃうと、それはもうまず療養地ですよね、須磨が。それから保養地でもある。または遊びに来る場所でもある。それから別荘地として都会を離れてやってくる場所である。で、その先にあるのが塩屋なんですよね。先っていっても、療養している人、あるいは遊びに来た人が歩いて海岸線を歩いてこっち側にやってくるっていう。あくまで塩屋が中心じゃない。だけど、塩屋っていうものがその視野の中に入ってるって感じがすごくするんですね。そしてそこで何が起こるのか。都会人と地元民の出会い、そしてそれをさらに言えば、さっきの「隠れ蓑」の令嬢のように、だいたい病身なわけね。体が弱い。で、こういう人がやってきて、そうするとあの漁師の息子が現れるという。これは本当に面白いなと思います。この対比っていうのが、ある時期明確に作られてきたなという感じがするんですね。

これはタイトルからしてすごいと思うんだけど、「小説性別死別」(波多野光雨・1917年)っていう。ここに「鹽屋(しおや)には蟲が多かつた、町とは違つて、八月の末になると、もう秋蟲が鳴き初める」とありますね。あとは「神戸新聞社主催の海水浴場が開かれて、神戸の人々が濱一ぱいになる迄下りて来て」とか、「神戸の女は派手であつた、しかし地方的の臭みは何うしても除れないが」なんて書かれている(笑)。

あと「千葉情話濱子夫人」(北堂金陸口濱・1917年)。もう名前からして危ない出会いっていうか。ここに娘が出てくるんだけど、その父親の名前が私と同じ直之だったんで(笑)、 やっぱこれにちょっとのめり込んで読み込んできましたけれど、この娘の名前が濱子っていうんだよね。やっぱり海にちなんでいるような名前で。それで播州須磨へ転地療養いたしましたと。で、「此處に有名の高松館といふ旅館がありますが、此館へ滞在して居りました。スルと神戸新聞で催しまする海水浴が開かれる、梅島の許へも招待状が参りました。此の直之という人は、交際家と見えて、日々朋友が訪ねて参ります」っていうことで、いろんな人がやってくると。で、あくる日、梅島は妻に向かって海水浴へ参るからお前も一緒に行きなさいって言って、妻は私は頭が痛い、お留守番をしております。娘を連れて行ってくださいと。それで梅島は濱子を連れて塩屋の海水浴場へ来てみると、幕を回し、提灯をつり上げて、旗などを出して、非常に派手に海開きをやってるんですよね。で、夜になったので「父さんあまり遅くなると母さんがご心配をなさいますから帰りましょう」と言うんですが、「いや、私は新聞社の者にもう少し話があるから、お前は先に帰っておれ」って言って、これ一人で帰しちゃうのがいけない(笑)。
「濱子は此處を出て海岸傳いに戻つてまいりましたが、此邊には外国人の別荘がありまして、其裏手の處は誠に寂しい故、濱子は足を早めて其處を行き過ぎやうとすると、向こふから三人伴れの書生體の男が、酒の機嫌か千鳥足で参つたが、濱子の姿を見て、「オイ中村、向かふから素敵な別嬪が来をつたぞ。イヤ成程別嬪じゃな。オイ近藤見ろ。此の別嬪に酌をさせてもう一杯飲み直さうではないか。あゝ賛成々々」
これもう、完全に地元民と都会の令嬢の遭遇ですよね。そういう場であると。それで無理やり連れていかれそうになって「どなたか来てください、助けてくださいまし」と濱子が言うと、現れるのが「駆け来たつのは五十二三の老爺(おやじ)」。老人の老にじじいの爺。って五十二歳ですよ(笑)。で、この三人を簡単にやっつけてしまう漁師のおじさんが現れたと。

この左の絵なんですけど、あの木の陰で笛を吹いている男がいて、あれがこの五十二歳の老爺の息子なんですね。で、お互いに顔を合わせて、この時は言葉は交わさないんだけれど、引き合うものを感じてしまうというような場面ですね。

あとこれちょっとこれ話していいかなって言ったけど、大丈夫かな。「敦盛そば」の関係者がいるとちょっとまずいかなと思ったんだけど。右のページにある文章ですが「傍に敦盛蕎麦と云つて名代の蕎麦屋があります、皆行つた者は名物であるから食つて見ると、旨いと云ひたいが、其の不味いこと、第一醤油が悪いから喰べられたものではございません」とある(場内笑)。
これ要らないと思うんだけど、この一節が入って、全然違う雰囲気の挿絵があって、で、この二人は出会うわけですよ。で、濱子は思わず向こうを見ると、笛の音が聞こえてくる。その後、この娘が留守番をしている母親に、危なかった顛末を話して、母親が感激して、その青年のお父さんを呼んでお礼をするんですね。それからも色々とありまして、ものすごい飛ばして結論を話すと、何しろこの濱子夫人の「千葉情話」という話ですからね。結局最後はこの二人は心中をするところまで行っちゃう。ところが、どうやって死のうか。千葉の方で死のうということになるんだけど、塩屋ではなく。結局ね、男だけが死んで娘だけが生き残ってしまうという、そういう哀れな結末で終わるんです。で、その全てはこの出会いから始まっているんです。

明治文学は私もそんなにいろいろ読んでいるわけではないけれど、やっぱり非常に大衆的な、通俗的なね、講談だとか、そういうのに通じるような人情話っていうかな、そういうのがやっぱりものすごくあったんだろうなというふうに思うんですよね。

あと、これはちょっとその心中まで行くはるか手前なんですが、ここにも塩屋が出てきます。
「何うもお前、何處かで見たやうな心地がするが、生まれは東京かえ」「イエ然うではございません、播州の鹽屋でございます」「鹽屋といえば、須磨の脇で、海水浴のある處だね」「御意にございます、其の鹽屋が私の生まれ故郷でございます。」「先年妾は須磨へ轉地したことがありましたが、佳い處だね」。
ここからだんだんと濱子がこの息子に心を開いていくという、そういうお話で。まあ別にそんなに感動するような話じゃないんだけど、それにしても、やっぱり塩屋っていうのはこういう場所として語られているんだなというのを確認できるようなものかなと思います。

で、当時、塩屋にどうやって行けばいいのかということなんですけれど、今のJR、山陽鉄道がですね、まだ国有化される前の明治29年に、この時はもう須磨と垂水には駅があって。塩屋は仮停車場だったんですね。その仮停車場が開業するのが1896年、これが国有化されることによって、10年後に塩屋駅となって、仮が抜けます。ということは、先ほどのその塩屋文学がいつごろ出てくるのかというのと、やっぱりすごく一致してますよね。 1900年代の半ばぐらいから語られるようになる。
それはやっぱり人の行き来というのが増えてきたということであると言えると思います。それから兵庫電気軌道は今の山陽電鉄ですが、これは1913年に塩屋駅が開業するということで、それで1917年にこの「兵庫電気軌道会社沿線名勝案内」というのが発行される。これも国会のデジタルコレクションで読むことができます。

ニア塩屋文学とは

ここからは「ニア塩屋文学」ということで、これ前回も話題になったんだけれど、あの筒井康隆さんがですね、垂水に住んでいて。1972 年に頃に引っ越してこられたんですね。で、筒井さんは垂水にお住まいで、活動の場は東京。で、明らかに塩屋を描写してるものもあるんだけれど、なかなか「塩屋」っていう字を使わないんですよ。 で、たまたまちょっと別の用事で、この間「狂気の沙汰も金次第」(1973年)っていうエッセイを読み返していたら、ちょうど彼が大阪から垂水に引っ越してきた頃のことが書かれているんですね。

これは産経新聞(夕刊フジの誤りでは?)に連載していたエッセイで短いものなんですけれど。その冒頭のところに「パチンコ」っていうエッセイがあって、垂水に引っ越してきたと書かれている。で、垂水銀座があって、4軒の大きなパチンコ屋があって、筒井さんは 1 日に 1時間は必ずパチンコをする。そして神戸市垂水、小さな町ではあるが、変わった人間は大勢いるっていう、そんなエッセイが載ってるんですよ。
本当に彼は結構長く垂水を拠点にしてまして。それと、実は私が神戸の美術館の学芸員になったのが 1980年で、1997年の春までいたんですね。だから17年いて、そのうちの 16年ぐらいを塩屋で暮らしていて、美術館のある灘まで通ってたんだけど。 80年代の前半だったかな、あの当時、兵庫県立近代美術館、今は兵庫県立美術館なんですが、そこが出している「ピロティ」という年4回発行している雑誌があって、その時アンソール展を開く予定で、誰かにエッセイを頼もうというときに、筒井康隆が垂水にいるから筒井さんに書いてもらおうよという話になって訪ねていったんですよ。
当時、垂水駅のすぐ前、垂水小学校の前にお宅があって、で、そこの玄関先で原稿をお願いしたのを覚えています。息子さんが垂水小学校に通ってて、で、ちょうど彼が帰ってくるときに玄関で話していて、で、3人で話した覚えがあります。ということで、筒井さんは垂水の人なんですが、それにもかかわらず、塩屋のしの字も出さないんですよね。ただし、この本の中に垂水はいくつか出てきます。 最後にジェームス山も出てくるんですね。
ちなみに筒井康隆の奥様が松野牛乳っていう牧場の娘なんですね。年が 10歳ぐらい違うんだけど。で、ジェームス山の、ジェームスさんから奥さんが子供の頃に何か服をもらったっていうのがこの中に出てきます。その松野牧場っていうのは大体この辺に牛乳を配達していた。そういう縁で彼は土地を提供してもらって垂水に住み、住んできたわけです。ただ、もう今は垂水の駅前がもう完全に再開発で、すっかり風景も変わってしまいましたので、もうその頃の面影はありませんけれど。

塩屋語辞典について

そして、今日は皆様に「塩屋語辞典」というのをお配りしておりますが、その中に「塩がない」という言葉を採用しておりまして。「塩がない」と書いて、発音は「しょうがない」です。「筒井康隆が明らかに塩屋を描写しながら、塩屋のしの字もないこと」っていうのを「塩がない」(しょうがない)っていうふうに使おうというのが、私の提案です(笑)。



 

お配りしたのは、2年前に書いた「塩屋語辞典」にもうちょっと増補したもので、今朝夜明け前に書いてたんですけど。で、いくつか紹介していきますね。

「頭の中が真っ塩」。これ一所懸命考えるときの状態ですね。もう塩屋語のことしか考えてないという。
「塩(えん)結び」「塩(えん)切り」は、塩屋で出会う、別れるってことなんだけど、私が縁切り階段、あるいは縁結び階段って呼んでる階段があって。今はちょっと封鎖されちゃったんだけど、私の通勤路でもあり、とっても好きな階段で。上の方が広くて下が狭まってる階段があるんです。下から上に二人で上がっていくと縁切りになる。だんだ距離が離れてくの。逆に上から下に降りてくるとだんだん体がくっつくんで縁結びになるっていう。本当に不思議な階段ですね。
「塩中(しおちゅう)」。これは塩屋中毒ですね。で、塩屋小学校、中学校卒業生及び在校生は重篤化するので気をつけてください。「塩漬け」塩屋につかる。そのままですね。全身塩漬け、塩屋に骨をうずめてしまう人。
「塩っぱい」はしょっぱい、塩屋で頭がいっぱい。「塩豆」。塩屋で豆に働くと人として、一例だけ挙げてますが、田仲豆腐店。先ほども行って、ご挨拶してまいりました。「敵に塩を送る」。垂水図書館に塩屋文学全集を贈る。これはぜひ実現させてほしい。
「塩ヤン」塩屋人。特に若い女性は「塩ジェンヌ」って。どうでもいいけど。で、「塩(えん)たけなわではありますが」。旧グッゲンハイム邸のイベントの締めの言葉。「塩仁(えんじん)全開」は塩屋中学野外活動スローガン。
あともうちょっといいかな? 今朝考えた結構いいやつがあるんで(笑)。
「塩害」っていうのがあって、聞きたくもないのに塩屋の話をいつまでもされること。いい加減にしろよって。それで下の方に「塩慮」っていうのがあって、塩害に少しは配慮すること。
「塩の下の力持ち」。旧グッゲンハイム邸のこれまでの数々の活動という、まさにそうだなというふうに思います。本当に敬意を表したいと思います。「塩分過多」は、塩屋のことばかり考えて日常生活に支障を来すこと。
これどうですかね。「傷口に塩を塗る」っていうのは、塩屋で昔から伝わる民間療法、荒療治。これで生き返った人多数あり。いや、塩屋に来て生き返っちゃう人っているんじゃないかなって。「これも何かのご塩で」塩屋での初対面の挨拶。ぜひ使ってください。この「塩目が変わる」っていうのも結構いいんじゃないですか。塩屋で世界観が変わっちゃう人っていうのはいそうだし、人生が豊かになる。「塩屋原人」はね、ネイティブ塩屋人。で、「塩屋文学」は、まだきちんと定義しないまま先に送ってっていいんじゃないかと思うんだけど。まさに塩屋の字が出ないといけないのか。でもそこに限定してもいいような気もする。つまり、そうなると筒井康隆は外す。だから、またこういう機会を作り、さらに増やしていくっていうのでいいんじゃないですかね。
「塩れる」。これもいいんじゃない?塩屋を訪れて逆に元気をなくしてしまう人が稀にいるっていう。
ここまでね、できてくると、もうね、本当にもう疑いなく、塩屋文学も塩屋辞典もありますよね。 だから逆にこの塩を使って文学を新たに作ると。筒井さんがやってきたことってそれに近いんだよね。本当に日本語を使って、誰も書かなかったような文学を作っていくっていう。
「塩ョック」。これ、今朝考えた。初めて塩屋を訪れた人が受ける印象。「塩ック死」は塩屋で死ぬことだが、この場合はあの世でも塩屋が待っている。塩屋から逃げられない。
「塩もない」(しょうもない)は、塩屋文学から外れた小説としているけど、さっきの「塩がない」(しょうがない)との微妙な違いはぜひ味わっていただきたいなと思います。
「全身塩漬け」の反対語に「無塩仏」って言って、死んだ後、塩屋に往生できず、要するに極楽往生できず、須磨や垂水あたりをさまよい続けることっていう。これは筒井さんも最後に無塩仏になっていただきたいなと。「ようし塩組」。これ使ってみてください。企画を立てて、これから集めるときに、ようし、塩組、円陣を組む。
はい。ということで、どうもありがとうございます。

ちょっと押しましたが、休憩に入って、それから持ち寄りの朗読をしていただいて、その後また少しお話できたらと思います。

ーーこのあと来場者の皆様から、それぞれが見つけた「塩屋文学」の紹介と朗読が行われました。ここで新たに加わった塩屋文学については、今後「シオヤプロジェクト」のホームページにて適宜追加し、紹介していきます。その後、ゲストの木下直之さんを再びお迎えしてクロストークを行いました。

 

クロストーク
木下直之×サラ・デュルト

サラ・デュルト(以下、サラ):
ここからは木下直之先生をお迎えしてクロストークを行います。よろしくお願いします。 まずこの今回のチラシ、今回結構頑張って作ってもらったんですけれども、「敵に塩を贈る」ために垂水図書館に持ち込んだんですね。で、受付に持っていったら「神戸市のイベントですか?」って言われて、ちょっと息を飲んでしまったんですけど。でも裏面のここに「令和7年度神戸市地域貢献活動補助金」ってちゃんと入れてたんです。この補助金というのが、実は今年から神戸市からいただいている地域貢献活動に対するもので、1年目がフルカバーで50万円、2年目が30万円で、3年目が20万円という補助金で。だんだん自立していかないといけない活動なんですね。なので、来年、再来年はどうしようかっていうのは切実な問題でもあるんですが、何よりも私がこの補助金をもらっているプロジェクト名が「塩屋文学館」なんですね。もう言ってしまいましたが、「塩屋文学全集」を今編んでいて、それを収める「館」を作るっていうことが目的なんです。それで、ちょうどここ(旧グッゲンハイム邸)の斜め上にある後藤邸という建物が使えることになりまして、その中にひと部屋とてもとても狭いんですが、 お手洗いのすぐ隣にタイル敷きの、かつては写真の現像の暗室として使われていた部屋がありまして。そこを「塩屋文学館」にしたいと考えているんです。

木下直之(以下、木下):
このチラシを 2000枚刷ってしまったっていうメールもらって(笑)、どこに配るんだろう? どっか大量にもらってくれるところないですか?って言うから、私も 2、3枚でいいとはとても言えなくて。一応、私の元の職場の兵庫県立美術館あたりにドサッと送ったらっていう。

サラ:それで。 美術館とか博物館とか文学館とかに送ったり、図書館、大学図書館などいろんなところに配りましたが、これだけの皆さんが集まってくれたことが何より嬉しいです。

木下:ここ(旧グッゲンハイム邸)にもいろんなチラシがね、置いてあるじゃないですか。紙媒体ってもう届かないんじゃないかっていうふうによく言われてて。もう本当にネットで発信すればいいっていうような、そういう流れにあるんじゃないかなというふうに思うんですけど。でも一方で、サラさんはこうして印刷するのが好きだって言って、 2000枚刷っちゃったっていうんだけど。

サラ:シオヤプロジェクトって、ここを拠点に塩屋のまちを遊んでいる集団なんですけど、そこが紙のチラシを出すのがとても好きで、チラシのみならず、いろいろな冊子だったりとか、パンフレットだったりをよく作っていて、その流れで、これももちろん。

木下:地図なんかはこれまでにもいろいろ作ってきただろうし、やっぱりその紙で。紙を広げるっていうね、地図を広げるっていう行為は重要だなと思いますよ。楽しいじゃないですか。やっぱり紙媒体っていうものはまだまだ残っていくのは間違いないなと思いますけどね。

サラ:垂水図書館の話の続きを少しだけすると、新しい図書館で、それこそ先ほどから言っているように、筒井康隆さんは垂水出身の小説家で、垂水図書館こそが何かをするべきではないかと常々思って言ったりもしているんですけれども、今のところその予定がないみたいで、となると、やっぱり塩屋文学で筒井康隆大先生にいつか来ていただかないと。 ただ、筒井康隆さんはなかなか手強くて、「塩屋」と文字に残しているものがほとんど見当たらないんですが、一つだけ見つけたのが「腹立半分日記」(1979年)という本の中で、塩屋のレストランに行ってました。前半でもお話した「シーズ・レイン」の映画の中でロケ地になったフランス料理屋がシーサイドパレスっていうマンションの地上階にかつてあって。もともと明治時代にシーサイドヴィラっていう木造の素敵なホテルの建物が建っていたところにマンションがあるんですが、そこの傍らにあるレストランに行ったっていうのが書かれています。

木下:「シーサイドクラブで食事を取る」と、それだけ言ってる(笑)。

サラ:筒井康隆という文学者が書いた日記で、出版されてもいるので「文学」と言ってしまってもよい気はします。やや乱暴ですが。でもどう思われますか? 塩屋文学って言ってしまってるんですけど、町の名前を冠して文学、これは結構どこでも成立するとすら思うんですね。

木下:いけますよ。どうせフィクションなんだから。 それ言い出したらね、日本文学っていうことだって怪しいわけじゃないですか。 これは本当に日本がどこまでなのか、空間の上でどこまでかっていうことと、時間的にもどこまでなのか、その適当なところで日本文学って作るわけだし、それに応じた日本文学全集ってのも。美術も一緒ですよ。どこかでこう、境界線を引いて、その内側だけを我々のものだっていうふうに考えているわけだから。そういう中で塩屋文学は当然成立する。ちょっとクオリティの問題は別だけど。

サラ:ただ、須磨・明石は文学的な名所であるために、語り尽くされたというか、よく語られてきて。だからといって、須磨文学とか明石文学っていうふうにはやろうと思えばもちろんできるけど、言われてきてはいないですよね。塩屋はちょっと恵まれてるなとは思うんです。却って。文学的に。

木下:やっぱり塩屋の力ですよね。塩屋の人間がそういうことをやろうとするから、そこにその世界が生まれるというか。

サラ:普遍性があるものだから、いろんなところでもやってみたら面白いだろうなと思うんですけど、その中でそう言いながら、何か優位性を感じている私がどこかにいる気はしていて。有意性というか、固有性。

木下:やっぱりその土地がどう語られてきたのか、イメージされてきたのかっていうのはすごく大きいと思うんですよね。過去にどういう語られてきたかっていうのが、やっぱりそのベースになって次のものが生まれてくると思うんですよ。だからちょっと筒井さんの話ばっかりしちゃうけど、たまたま垂水の女性と結婚しただけの話でさ。で、たまたま土地があって、その土地に家建ててっていうだけの話じゃない? それでもやっぱりあの人、大阪の人だけど、やってきて、この土地に住み着くっていうかな。もちろん恵まれてるとは思いますよ、この風景は。それからこういう拠点もあるっていうのは、それこそさっきお話ししたように、「塩(縁)の下の力持ち」って感じがするんだよね。ただ、塩屋文学と同等に垂水文学もあり得るし、須磨文学だって。ありうるけれど、でもそれを作る、誰がそれを作るのかっていう、そっちの問題だから。やっぱこの活動はそれなりに、どうなっていくかわからないだけに、面白いと思いますけどね。

サラ: あと、やっぱり時代時代で塩屋の見え方が変わってくるというか。木下先生が今日、明治時代の話をされて、やっぱり鉄道の発展と関わるところが多くて。鉄道がもうメジャーになると、「暗夜行路」もそうだし、内田百閒もですけど、列車で通り過ぎながら車窓から十秒ぐらい海の景色を楽しんで塩屋を過ぎ去っていくっていう。
ただちょっと面白いなと思ったのは、源氏物語も、今日の、明治の令嬢と漁師の息子の話もだし、現代文学の「She’s Rain (シーズ・レイン)」にしても、それは文学の永遠のテーマとして男女の恋があるからかもしれないんですけど。
最初に源氏物語の話をしましたが、読み直すことで印象が変わってきたこともあって。須磨に流されて、本当にもうその後の文学で何度も思い起こされ、語り継がれるような、寂しい、わびしい生活を送った光源氏が、ある種、神の導きというのか、海の神・住吉の神の導きもあり、明石の入道に遣わされた船で明石に行って。で、入道の娘の明石の姫君と会うことになって。後に、明石の姫君は京都に行くことになるんだけれども。ずーっとそれを願っていたのは実は姫よりもお父さんの方であって、最初はお父さんが恋の歌を書いたりもしてるんですね。姫の代わりに。それで、入道の方も本気で光源氏のことが大好きになったんじゃないかというふうに読めてきたんですよ、だんだん。源氏との別れの場面では入道がすっかり取り乱してしまっているし。実際のところ、明るい陽の下で源氏と入道はしょっちゅう会って、楽器を奏でたり歌を交わしたりしているのに対して、明石の君とは夜に灯火の下で会うばかりで、あんまりまともに顔も見ていない様子で。ひどく下世話な話に戻してしまいますけど、境ケ浜海水浴場はその後ゲイビーチになったんですね。で、ちょうどあまり見えない、どこからも見えづらい場所。ただし、鉄道は通る。鉄道と国道のみが通るんですね。だから、知ってる人は境川のところで海を見てると、この浜辺には男の人しかいないなっていうことがわかったりするんですけど。 別に源氏物語があるからそれが起こったというつもりは毛頭ございませんが(笑)。そういう色々なラブ・アフェア、男女のみならず、いろいろなラブ・アフェアが、文学の主要な主題の一つであるというのに足して、塩屋文学として取り上げることで、なんかより身近に感じられるというか、そういういろいろな在り方が、今も昔もあったんじゃないのかなっていうのが、勝手な解釈ではあるんですけど、面白いなって思うんですよね。それがバラバラな時代の文学を塩屋文学ってまるっと取り上げることによって、そういうのがちょっと引き立ってきてるのかなっていうのを、個人的な感想としては持ってるんですけどね。

木下: 今まで見つけてきた中で同性愛の問題って出てるかな? ないですね。今話が出たビーチは、いわゆるハッテン場だったんですね。須磨と塩屋の間は。本当に男が横たわって寝そべって体を陽に当ててたっていうのは私も覚えてるけど。私は今鎌倉にいるんですが、隣の藤沢にあるんですよね、そういうスポットが。だから、ちょっと外れた海岸特有の感じはある。ただもう今、 SNS でとかさ、ネットでいくらでも情報入るんで、別にそこ行かなくてもいいっていうようにもなってはいるんだけど。だからそういう塩屋の海岸の持ってるある一面っていうのも確かにあって。ただそれが文学に反映されてるかどうかはわからないけど。

サラ:歴史的に見ると、どうも須磨の海岸よりも塩屋の海水浴場が早い段階で開いて、外国人が多く、彼らこそが海水浴を始めた人たちだったから。山登りと海水浴は、外国の人たちが始めた歴史がありますね。

木下:今は砂浜は減っているけど、筒井康隆の自伝を読んでたら、垂水の海が遠浅で、子供と遊んだというのが出てくるんだよね。

サラ:垂水の海は埋め立てられてしまったから。ただ、海水浴の話で言うと、「早春」(庄野潤三・1982年)に、叔父さんが大阪の浜寺の水練学校に通っていて、塩屋に分校ができて、という下りがあるんです。「(その分校は)あまり生徒が集まらなくて、一年でやめになった。じゃあ叔父さんは水泳の達人だな。卒業試験があって、抜き手だとか立ち泳ぎだとか、いろいろな泳法をやらされるらしい。遠泳は泉大津から大阪湾を横切って、真向かいの魚崎まで、朝の八時頃出て三時頃に着くんだそうだ」とあります。すごいですよね(笑)。これありえないと思ったんですけど。ちなみに、ここから淡路まではすごく潮流が速くて危ないということで、例えばサマセット・モームの小説の中では、平磯の灯台を回って戻ってこいっていう課題を出すんですけど、それが非常に潮の流れが速く難しいものであるっていうことが書いてあります。潮流が激しくて、泳げたもんじゃないっていうのは、筒井康隆さんもどこかに書いてたと思います。そういう共通点が見つかるとまた嬉しいんですよね。この人もこの人もこのこと書いてるっていう。

木下:(付箋だらけになった椎名麟三の「美しい女」を手に取る)

サラ:これは究極のイニシャルトーク本で、全部 S 駅とか、T駅とか、アルファベットでしか記されてないんですよね。S 駅が塩屋かどうかもわかんないんですよ。K駅は加古川って書いてみたり、 私が全部推測して……Hの城って書いてあったら姫路かなって。椎名麟三て確か若い頃に山陽電鉄(当時:宇治川電気)の、私鉄乗務員だったんですよ。それでいろいろな駅名ですとか地名が出てくるんですけど、AとかKとかHとかTとか、そんな感じなんですけど、あまりに難しいから全部におおよそ当てて付箋に書いてて、でもどれが塩屋を指しているかわからないから。海岸沿線の風景が美しいというようなことが書いてあると、このSはおそらく塩屋だろうと思いながら、でも須磨もSでしょう。なので判断が難しい(笑)。
あと、今回漫画はあんまり紹介できませんでしたが、先般塩屋中学校にレクチャーに行った時には、明らかに塩屋中学校がモデルになっている阿部共実「月曜日の友達」を見せたりして。こういうものが蓄積されると、塩屋文学に広がりを持たせることができる。確かに塩屋について語るっていう、塩屋っていう言葉自体が、元々、塩を焼く小屋だったと思われるものが、そのまま定着して地名になっているというので、いろいろ膨らむんですよね。塩ってやっぱり一番重要なものだから、人間の生存においてなかなか深いなと思います。ただ、他の地域にある「塩屋」についても気を配っておきたいなっていうのは思いますね。

木下:日本に「塩屋」の地名がどのぐらいあるのかっていうのはね。国土交通省の地図のデータに「塩屋」って入れたらたくさん出て、本当に瞬時にね。 だから今日ちょっと国会図書館の紹介したのも、ある意味禁じ手かもしれないなというのがあって、で、最初始めた頃って、ただやたら読んでるうちに見つけたあの喜びってあるんだよね。データベースでさ、一瞬にして手に入っちゃったら全然違うなと。それから調べる、それなりの楽しみはあるんですけど、私が最初に「塩屋だ!」と思ったのは、「好色一代男」(井原西鶴・1682年)だったんですね。で、その後でこれ、瀬戸内寂聴の「場所」(2001年)っていう本を読んでて、で、これはやっぱり彼女にとってまだ京都にいた時のね、瀬戸内晴美って言ってた頃のものなんだけど、男と一緒にここにやって来るっていうような、少し自伝的な話なんですよね。京都からどういうふうに男と手を携えてやってきて、何かその辺で結ばれるっていうような話があるんですよ。前回これ朗読したような気がするんだけど、さっき見たら恥ずかしくて。(初回の「塩屋文学を読む」のチラシには)朗読できない人は代わってやってくれるって書いてたね(笑)。二回目はちょっと。これ恥ずかしいんで(笑)。

サラ:私で言うと、私はもうこれ(「She’s Rain (シーズ・レイン)」)は本当に恥ずかしくて、時代が違うっていうのか、もう。女の子の「コ」がカタカナとか(笑)。

木下:この塩屋文学については、これからも新しいものについても、どこまでこれが広がっていくのかっていう楽しみはありますね。例えば情報誌だとか、読者層が違うところで流通しているメディアってあるから。さっきのゲイビーチの話で言えば「薔薇族」って雑誌が有名だったけど、あれは本屋で売るようになったんで一気にメジャーになっただけで、それ以前にも本当にあのサークルの中だけで流通していた雑誌とかいろいろあるから。そういう意味でまだまだ未開拓なものって、あるんじゃないですかね。だからまずはやっぱりどんどん集めればいいんじゃないですか。

サラ:ところで先生はどうしてこの本(「近くても遠い場所: 一八五〇年から二〇〇〇年のニッポンへ」木下直之・2016年)の表紙に塩屋の坂を使っていたんでしたっけ。

木下:忘れちゃったんですけど、この本の表紙はジェームズ山の方からこっちに向かって降りてくる坂道で、これは私の通勤の時に撮った写真なんですね。 その時、朝日新聞で「街を歩けば」っていう連載をしていて、一枚の写真とちょっとしたコラムっていう組み合わせでだったんですが、絶対に特定の場所を出さずにやろうと。どこにでもあるような風景を使って、どこにでもある問題に触れるっていうような、そんな思いでやっていて、結構この辺を取り上げてたんですよ。例えばこれ(塩屋にある歩行者専用の道路標識)、これどこにでもありますよね。全国。これ何でこんな変な形してるのかっていう。まず帽子。何で帽子被ってるのかというような……(笑)。別にどこの風景でもいいんだけど、何か気になるっていう。

サラ:でも私は新聞でこれを見て、これどっかで見たことあるって。すごく特定の場所が浮かんだ。

木下:だから今日はあれだよね、あの人、松隈さん(松隈章/株式会社竹中工務店設計本部・聴竹居倶楽部代表。ジェームス邸の保存・修復・再生に携わった。塩屋在住)来てないけど、松隈さんはこれ(壁に埋め込まれた自動販売機)見て一発でわかった。塩屋の人なら絶対わかる。けどこの風景は、別に塩屋に限らず、ある意味普遍的にある問題です。そうやって塩屋の町を見ながらちょっと遊んできた部分があるんですよね。今ちょっと結果的に離れてはいるんだけど、でも塩屋っていうものを拠点に、やっぱり一つの、知らない世界っていうのが、いろんな人が関わることによって気づいていけるっていう、そういう魅力はあると思うんですよ。

サラ:この新聞のコラムを見た方が、前回は朗読してくださったんですよね。 すごく朗読が上手な方がしてくださってよかったです。だから、このイベントの朗読っていう側面も残していきたいなと思って。やっぱり人が読んでくれるとすっと入ってくるなと。

木下:ぜひ次回もね、塩屋文学、やってください。

サラ:やっぱり本ってその時代の記憶が記録されていて、それが今に伝えられていって、明治文学とか本当に忘れてしまったようなものが、急に目の前に出てくることで、その時の塩屋のかたちっていうのがやっぱり立ち現れてくる。それは写真であったり、80 年代に先生が見た塩屋の町だったりするし、もっと古い写真とかもあるんですけど、その間を埋めてくれるような、形がぼんやりとだけど見えてくるようなところがすごく面白いな、と。

客席より質問:特定の塩屋語、これは塩屋の言葉だみたいなものがあるのかどうか。いわゆる方言について。

サラ:播州弁というか、特徴的な言葉はいくつかあって。漁師の方たちの喋り方がちょっと播州の名残があるっていう風には聞いてます。

木下:漁師はまた違う世界を持ってるよね。だって海で移動してるから。この辺は本当に近いところでだろうけど、遠い沿海まで行く人とか、いろんなタイプの漁師が海でつながっていた。そういう文化っていうのはもう間違いなくあって、瀬戸内海はもうまさしくそうだと思うんですよ。今日はちょっと陸路って意味で、鉄道がここにまで伸びてきたことの重要性というのは間違いなくあったと思うんですけど、でもそれ以前に、昔からやっぱり海でつながってた場所だっただろうなというふうに思うので。またそういうふうに違うカッコ付きの文学の世界かもしれないけど、どう語られてきたのかっていうのはあると思いますね。それから、日本文学って言い方は、美術の世界だとどうなるんだろうって本当に思いますね。日本美術だとか日本写真という言葉も、日本人が作ったものなのか、日本で作ったものなのかと、いろんな捉え方があるから、どの辺にも正解はないなって感じがしますね。

サラ:そういう意味で、塩屋っていうキーワードで、少ないとはいえ、英語で書かれたものもあるし、本当にいろんな時代を塩屋っていうキーワードだけで見ることで、はっきりしたことは何も分からないけれど、ぼんやりとした塩屋のまちの形に収斂していくのかなというところがありますね。

はい。ちょっと取り留めなく話してきましたが、「塩屋文学全集[二]」でした。[三]もまたよろしくお願いします。では。 どうもありがとうございます。

 

イベントを終えて

サラ・デュルト

イベント修了後に、改めて木下先生と話したことや、雑感をまとめておきます。

かつて、「She’s Rain (シーズ・レイン)」の頃・1980年代に塩屋~舞子の海沿いが、阪神間の若者のデートスポットで、海や塩屋が「添え物」として消費されていたんだよ、という話をしていたら、最近のデートスポットとして急浮上しているのが、2025年9月に新しく開館した垂水図書館の屋上らしい、と高校生の娘から。
古典では、男が都からやってきて、現地の海女と付き合うというパターンが多い(在原行平・光源氏・好色一代男……)が、明治塩屋文学では、都会の令嬢が漁師の息子に出会って……と、性が反転していたのが印象的dだったとも。明治時代になって、鉄道が敷かれ、塩屋に外国人が増えて洒落た場所になったことで都会の素敵な美人が集うようになったためと考えられます。
塩屋の都会からの絶妙な距離(近世までは国境(くにざかい)のすぐ外、辺境にあるデートスポットは文学を生む。垂水図書館の屋上から生まれるのは恋か文学か。

今回、朗読にあまり注力出来ませんでしたが、本の内容のみならず、読み手の声色やテンポも加わるので、持ち寄り朗読はやはり面白いものです。朗読によって意外な魅力が発見されたりもします。珍しく貴重な書籍だと、見つけた喜びもひとしお。
今回朗読された塩屋文学については、発見者の同意を得られたら、私が新しく紹介した塩屋文学と同様に、順次シオヤプロジェクトのホームページにコメント付きで追加していく予定です。

書籍のデジタル化技術が精度を上げたことにより、検索はもちろん、多くの死蔵されているような歴史書籍に塩屋が出てきていることが判明しやすくなり、評価の対象にすらならずに埋もれているようなものを少なくとも「塩屋」というキーワードで掬い上げることができるようになった点は励みになります。

塩屋文学館づくりに関しては、助成金の期限の3年計画で進める予定ですが、初年度にトークイベントの文字起こし(本原稿)と新出塩屋文学をウェブコンテンツとして整え、2年目はコンテンツをさらに充実させて冊子化に注力して周知につとめ、2027年に館の落成イベントとして塩屋文学全集[三]を開催したいと考えています。
東京から参加していた早稲田大の鳥羽耕史先生は、地名を冠した文学館としては、姫路文学館や尾道文学の館などが存在しているけれど、地理的対象がより限定的、局所的な「塩屋」文学館は、フィクション性の高さとその規模の小ささ(約1㎡!)も含めて面白く意味がある、と応援してくださいました。頑張ります。