塩屋の海|金セッピョル(文化人類学者)

2023.12.31

海を眺めて、入って、ときには渡る。そういう生活が始まって早くも4年が経った。海があるだけで、生の肌触りがどれだけ変わったか。
眺める海
海ほど何にも遮られず、気持ちよく広がっているものがあるだろうか。わざわざ眺めようとしなくても、塩屋に住んでいるとふと海が目に飛び込んでくる。書斎の窓から、坂道を歩いている途中、山陽電車の車窓越しに。それまでやっていたすべてをふっ飛ばすかのように、空の色を飲み込んだ海が現れる。その空と海のあいだにある、
水平線。
ぼんやりと、まっすぐに広がるその迷いのない線に、言葉が吸い込まれる。わたしは丸い地球の上に繋ぎ止められていた。いくら人間が地球の隅々まで改造する世紀でも、水平線だけは手の入れようがないだろう。この確信が網膜から染み渡るその刹那、私の世界は光速でズームアウトされ、ついには消える。
入る海
暑い季節は塩屋浜によく海水浴に行く。漁港とテトラポットに囲まれた素朴な砂利浜が、どこか塩屋らしい。燃えるような日差しが少し和らぐ夕暮れ前、海に入ってゆっくりと仰向けになる。何かに身を委ねてこそ味わえる、この軽さが好きだ。オレンジ色に光る屋根や不定形の雲を見上げてぼーっとする。
足がつかないところまで少し泳ぐ。陸地より海の方が自由に動ける気がする。まっすぐになってパタパタ、ぷかぷかと浮いている。広大な海のまんなかで無防備にも、白く光るわたしの足。ふと不安になる。この下には何があるのだろう。プランクトン?魚?サメ?!
ゴミ。日によって海は濁って、無数のゴミを浮かせている。読めない文字が書かれたプラスチックの破片やたくさんの木屑が、波の色に染まって漂っている。そして東北から流れてきた未知の水が何粒か。これがわたしが生きる地球。その地球のなかに入る。
渡る海
関西空港発着でも、神戸空港発着でも、これまで乗った飛行機はすべてこの海の上空を通った。往路は進行方向の右側、復路は左側の窓辺に座ると塩屋の海がよく見える。淡路島の向かい側、海に向かって少しだけ出っ張ったその地形を探し当ててみる。ちょっと前まで存在していた場所がだんだん小さく、遠くなると、生まれ育った国へ、知らない場所へ、トリップ。
再び塩屋の海にズームインすると、そこがわたしの居場所。ただいま。