明治維新くらいまでさびれた「塩焼き」の町だった塩屋が大正期には立派なリゾート地。 その目覚ましい変貌ぶりを伝える田山花袋『日本一周』と『京阪一日の行楽』

2026.03.23


日本全国の温泉を巡り、温泉に関する本も数多く残す一方で、代表作『蒲団』など自然主義派の小説家として高名な著者が書いた紀行文・旅行案内。大正期の初めに出版された『日本一周』では、
布引の滝、湊川神社、等の名所を挙げたのち、

神戸で見るべきものは先づこの位のものだ。しかし、長く滞在している人は、再度山に登ったり、鵯越・一ノ谷を探ったりするのも面白かろうと思ふ。
神戸に来ると、誰でも一ノ谷の戦を思い出すに相違ない。平家の本陣は、其時、須磨の後の方に置いてあつたらしく思はれる。鉄拐ヶ嶽といふのは、須磨の先の塩屋の上の方に聳えてゐる山で、その奥に一寸した谷がある。そこに安徳天皇の皇居の址だつたといふところが形ばかりになって残ってゐる。平家は海から来て、漸くこの一角に取付いたといふやうな形である。

(田山花袋『日本一周』前編(大正3(1914)年4月発行 博文館)

一ノ谷の上に聳える鉄拐山の引き合いで塩屋にメンションが及んでいるというわけだ。
安徳帝内裏跡とされる場所は、確かに今も一ノ谷にある。塩屋の上に聳える鉄拐山の「奥の一寸した谷」というより、鉄拐山の麓の「ひらけた場所」にある。一ノ谷の地理的な位置付けの齟齬は、何に基づくものなのかはひとまず置いておこう。
「安徳帝内裏跡伝説地」と書かれた碑は、今「一ノ谷公園」にある。すぐ脇には公女和宮の銅像を祀る祠があり、そのまた隣には真理胡弁財天と刻まれた石が台座の上に崇められており、その横に「安徳宮」なる社がある。この社の鳥居の奥の灯籠は、かつて一ノ谷に住んでいたモルガンお雪が献灯したものだと言われる。なるほど社に向かって右の灯籠の基部に「モルガンユキ 加藤コト」と刻まれている。

さて、田山花袋に話を戻そう。同じく『日本一周』の中編にも、塩屋が出てくる。

私は思う様この海岸の風景を見ようと思って、 須磨で汽車を降りて、それから明石まで歩くことにした。
この間は少なくとも三里はある。塩屋、まひこ、たるみ、大蔵谷などという村が街道に連なっている。松は海岸に行儀良く並んで続いている。

須磨〜明石の海岸の風景を思うさま見ようと、三里(約12キロメートル)の距離を歩いたという。立派な心がけだ。さぞかし心に残ったことだろうと思う。そして実際印象深かったようで、次に紹介する、およそ8年後に発行された『京阪一日の行楽』(大正11(1922)年12月)では、塩屋に格段に多くの紙幅が費やされている。その間の変化はさぞや著しかったものと推察される。やや長めに引用する。

これから少し行くと、境橋といふのがあつた。それは摂津と播磨との境であった。松も見事なのが段々多くなつて行つた。淡路島の霞んだ形も次第にぼんやりして来て、後にははつきりその姿を見ることが出来ないほどになつた。例の頼山陽の詩に、遠帆如坐近帆行といふ句があつたが、実際その通りの静けさであつた。をりをり波打際を汽車が通って行った。
今はこのあたりも非常にひらけた。海水浴場なども沢山に出来た。現に兵庫電軌の停留所に「かいすゐよく」といふ名のあるほどであった。これから少し来ると、塩屋だ。
源氏物語を読むと、此処あたりは、今の北海道でもさうではあるまいと思われるほどそれほどさびしく書いてある。波ばかりが颺つてゐるやうなところにして書いてある。
風をいたみ
塩屋のけふり
下にきえて
波はかりこそ
立ちあがりけれ
これは私の師匠の松浦辰男先生の歌だが、源氏時代でなくとも、維新近くでさへも、この塩屋の里は、海人が塩をやくところとしてのみ世人に印象されていた処らしかった。それなのに今のひらけやうは?今の立派さは?また今の別荘は?とてもその時分のことなどは想像が出来ないくらゐの賑やかな海辺の里になつて了った。
それから塩屋の町を通って、垂水の方へと向つて行く。それは汽車と電車と県道の路とが三つ重なり合ってゐるやうなところであった。汽車は須磨、塩屋、垂水の三駅を、電車は一ノ谷、敦盛塚、東塩屋、塩屋、東垂水、垂水の六停留所を置いていた。この間も海は美しく、松の音は静かに、いかにも倭絵のシインのやうな気がした。淡路島が大きな鯨の背のやうに深い霞の中にその面影を見せているのも面白かった。

(『京阪一日の行楽』1923.2 博文館)

ここでいう「汽車」に相当する山陽鉄道は、明治29(1896)年に塩屋を仮停車場として旅客・貨物の取扱をはじめ、明治39(1906)年に塩屋駅に昇格。今のJR山陽本線の前身である。「電車」に相当する兵庫電気軌道は大正2(1913)年に一ノ谷駅から延伸した際の終着駅として塩屋駅を開業。後を引き継いだ山陽電鉄に一ノ谷駅は現存しないが、須磨、須磨浦公園、塩屋、滝の茶屋、東垂水、垂水の6駅がJRの須磨、塩屋、垂水の3駅間に相当する。
花袋のいう兵庫電軌の停留所「かいすゐよく」は、私も母の昔語りにも聞いたことのある「境ヶ浜海水浴場」で、塩屋駅が設置されたのと同年、大正2(1913)年に兵庫電気軌道によって須磨海水浴場の西に開設された「境浜海水浴場」を指し、海水浴客で賑わい、シーズン中には臨時に「境浜海水浴停留所」が設けられた。

その後、潮流による海浜の浸食で昭和の半ばに閉鎖されたそうだが、40年くらい前までは存在した塩屋駅の東側の砂浜も今はもうない。
源氏の昔から明治維新までほとんど変わっていないような悠久の歴史と、近代化による塩屋の町のドラスティックな変化は田山花袋の目を驚かせたようである。
菅公橋を指すかと思われる「汽車と電車と県道の路とが三つ重なり合ってゐるようなところ」が、今も「JR山陽本線と山陽電鉄と国道2号線が三つ重なり合っているようなところ」ではあるものの、もし田山花袋が現代にタイムススリップしてきたら、ここ100年ほどの間にじわじわ削られている海岸線の変化に一番驚くかもしれない。
京都の芸妓だったモルガンお雪が一ノ谷の安徳宮に灯籠を寄進したのも同じく大正11年であったことを思い起こすと、“明治のプリティ・ウーマン”(←神戸新聞記者によるキャッチ)、お雪がアメリカの大富豪モルガン家のジョージ・デニソン・モルガン(J.P.モルガンの甥)に当時4万円(今の8億円とされる)で身請けされ、玉の輿と囃し立てられて日本を離れ、アメリカ、ヨーロッパと渡り歩くも、人種差別に疲れ、パパラッチに追われ、束の間の平穏な暮らしを求めて数ヶ月過ごした、当時「異人山」と呼ばれた一ノ谷の当時の瀟洒な様子も目に浮かぶ。
漁村から別荘の建ち並ぶリゾート地へと変貌を遂げた大正期の塩屋の風景をしのぶよすがとなる田山花袋の紀行文。『京阪一日の行楽』のまえがきに「ただの案内書ではあるけれども愛読してくださればこの上ない幸福である」とある。繰り返し読むことで味わいも増す。大正時代の紀行文を頼りに100年後の行楽を楽しもう。