塩屋の遠景|大竹英洋(写真家)

2022.09.08

 2016年の年明けから神戸の西で暮らすことになり、部屋を探していた。垂水駅を降りた夕方、足早に家路に向かう人々の流れに活気があった。商店街の配置や店構えからも、急造の住宅地にはない風情。それがすっかり気に入って、垂水駅からバス圏内に住むことにした。
ところが、暮らし始めてまもなくのこと。家で地図を広げていたら、徒歩でならもっと近い駅があることがわかった。塩屋というらしい。歩いて20分ぐらいだろうか。ネットで調べると、旧グッゲンハイム邸という洋館では、様々なイベントをしているようだ。ちょうどその頃、関東の友人に転居を伝えると、好きなユニットの演奏会がそこであるから行ってみてと言われ、一人足を運んだ。
塩屋中学校の横から急坂を降りてゆく。沢の水が転がり落ちていくように谷底に着くと、そこからは海に向かって緩やかな下り。郵便局から先は道が狭くなり、いよいよ車が通れないほどの路地に入っていく。本当に駅に続く道なのかと不安に思いつつ、豆腐屋の前を通り、年季の入ったクリーニング屋を曲がり、ついに駅前に出たと思ったすぐ横には、むき出しの鮮魚を並べた魚屋の懐かしい佇まい…どこも昭和から時が止まっているかのようだ。
駅から少し歩いたところに洋館はあった。入り口の前の踏切で遮断機が下りた。久しぶりに聞くカンカンカンカンという一定のリズムに耳を傾けていると、坂の上から続く長いタイムトンネルを抜けてきたような感覚に包まれた。
それから一年以上が過ぎた2017年4月30日。毎日新聞の書評欄を見て驚いた。「昨日読んだ文庫」というコーナーで、僕の原稿が掲載されたのと同じ面に『旧グッゲンハイム邸物語』の記事と著者の顔写真が載っていたのだ。すでにその本を読んでいた僕は、何かのサインだと思って、新聞を手に直近のイベントに参加した。そこで初めて管理人の森本アリさんに挨拶したのである。その縁がきっかけで町の文化祭「しおさい」に声をかけてもらい、784ジャンクションカフェで写真展をし、地元のギタリスト鈴木健一郎さんとコラボイベントをしたことから友人の輪が広がっていった。
というわけで僕の場合、垂水の魅力は感じたが、塩屋駅の近くに住むことを自ら選んだという意識はない。が、むしろ人生で重要な要素の多くは、最初から選べないと思っている。家族や国や時代は言うまでもなく、ライフワークとなる撮影フィールドでさえ、夢に現れたオオカミがきっかけだった。でも、選べなかったものにこそ、巡り合わせの妙を感じてしまう自分がいる。
神戸での暮らしも5年が過ぎた。今年の8月6日は、塩屋の空に見事な虹がかかっていた。