塩屋の〈跡〉| 鈴木勝(音楽家)

2022.09.08

 

 国道からの緩い坂道を5歳の息子とゆっくり歩く。

 何食べてるん
たけのこのさと
ふうん
ばあちゃんが送ってくれた箱に入ってた

 子どもに甘い物を与えるのに慎重だった私達もこの頃少し緩くなった。
道沿いには古い家の取壊し後にたとえば基礎の一部や土間タイル、あるいは擁壁と玄関までの階段や外塀等、いわば〈遺構〉を残した土地がちらほら目につく。市営住宅の跡地や長く人の住まないらしい空き家もある。
塩屋には再建築不可の土地や、狭く入り組んだ傾斜地も多い。そこでそうした〈遺構〉が残されたり、空き家として残る家々も規格化されたいかにもな建売住宅ではなく、地形に合わせて設計されたり、暮らしに合わせ手を加えられたりしていて、そんな〈跡〉が風景を特徴づけている。それはそこで暮らされた、今はもうない日々の跡でもある。
そんな遺構や空き地、空き家を見る時、私は想像する。どんな人がどんな風にそこで日々を過ごし、そこに佇み、暮らしを積み重ねただろうか。

 今はもうない日々。
今ある日々はいずれ失くなる。
が。

 その日々がかつて確かにそこにあった、という事実の方は決してなくならない。私は好んでそう考える。
どれだけ月日が経とうがそれを知る人が一人もいなくなろうが、誰にも知られず誰も見ていなくても、起こった出来事は起こった。量子論やSFが何を言おうと、私達が現に生きて経験する現実は徹底的にひとつだ。そこでかつてあった事は間違いなくかつてあり、絶対に覆されない。なかったことになどならない。
塩屋に移って14年目だ。ここで私は結婚し、古い家を買い、妻は大病を乗り越え、息子が生まれた。その一日一日に一つひとつのいってらっしゃい・いってきますがあり、ただいま・お帰りがある。一つひとつの笑いや諍いがあり、気が塞ぐ日も晴々と心が弾むような日もある。喜びの言葉があれば、時に痛みを伴う言葉が吐かれもする。一つひとつの言葉、呼吸、どんな些細な眼差しも身振りも確かにそこにあり、それらは全ての人に忘れられた後も、消えずにあり続ける。
そんな風に考えることは、私の日々のちょっとした支えになる。少しは良く生きようという気にさせてくれる。
家の前に着いた時、息子が小さなチョコレートのたけのこを私の前に差し出した。

 おいしいで
ありがとー

 私は屈んで、それを彼の手から食べる。
そして私たちは今日の、ただいま・おかえりを言う。