「魚友」店主・松本幸次郎さんのはなし

2023.07.21

商店街の人々と立ち話を繰り返すうちに、店主たちが経験したことや過去に見聞きしたこと、あるいはもっと上の世代の人から聞いたのだという町の昔話なんかを聞くことが増えました。
時代が行ったり来たりする上に、いきなり話が始まるのでメモを取っている余裕はなく、私の頭ではそう簡単には整理できずいつも混乱するのだけど、頭の中で空想を繰り広げてはもっと聞いていたかったなぁ、いつか形にしたいなぁと思うようになったのです。
公式な記録が残っているわけではないし、記憶が違っていることだってあるだろうし、もはやことの真相は確かめようもないけれど、一言一句を拾い上げて綿密に裏をとることよりも、話してくれた方の言葉のまま残したいのです。
「しおやのはなし」は、塩屋の町の記憶を記録するために、立ち話で聞いた話を再び根掘り葉掘り聞き直し、文字にして残していく活動です。

話者:松本幸次郎さん
協力:松本徹さん(テツコの部屋)
取材:山森彩(ユブネ/シオヤプロジェクト)

今回お話を聞いたのは、「魚友」の元店主、松本幸次郎さん。「魚友」は幸次郎さんの曽祖父にあたる幸太郎さんが1894年に創業し2003年に閉店。幸次郎さんは、「魚友」5代目にして最後の店主である。1950年頃には、幸次郎さんのお母さんがいかなごのくぎ煮をつくりはじめ、塩屋を「いかなご釘煮発祥の地」たらしめた。魚と仕出しのお店として、塩屋のメイン通りだった国道2号線沿いに開店し、のちに山陽電鉄線の北側に移転した。幸次郎さんがお店に入ったのは1956年、なんと12歳の頃。その後15歳の若さで店主になる。取材には、幸次郎さんの古くからの友人であり、町の歴史に詳しい松本徹さんも同席してもらった。

小学生の頃から配達へ。十五になったら一人前

幸次郎さんの祖父・幸一さんの代には漁師業、魚屋、仕出し屋の3本柱で商売をしていた。当初は父の速男さんが魚屋を継いだのだが、第二次世界大戦が終わり叔父が帰ってきたため、速男さんは漁師になり、叔父さんが魚屋を継ぐことになった。しかし、叔父さんはあまり商売が上手ではなく、実際には幸次郎さんとお母さん、幸次郎さんのお姉さんが店を切り盛りしていたという。そして、幸次郎さんが12歳の時にお父さんが亡くなり、実質的には幸次郎さんが店主となった。

幸次郎 昔はお店で待っとっても売れへんから、自転車で御用聞きにまわって商売しとった。中学を卒業するまでは学校が終わったら、注文を取りに行ったり、配達へ行ったり。後継者がおらなあかんからね。叔父は気がええから失敗ばっかりしてな。借金したり。後で聞いた話やで。うちの親父がな、年末に仕入れやら帳簿の状態を見たらめちゃくちゃやってな。「仕入れはこの半分で済むはずやのに、何をしとんや」いうて怒ったっていう話を聞いたことがあるわ。ほんで借金つくってもうてな、結局はわしが引き継いで。そやけど先に仲買に借金しとうから、まずは支払いをしていかなあかんわけや。借金返すんに2、3年はかかったわ。仕入れして商売しながら金はろて(払って)いかなあかんねんから。まぁ、いろいろあるわ。

高校行くっていうたって、どっちみち魚屋を継ぐんやったら、学校の勉強はいらんからなぁ。15歳になったらもう一人前。叔父さんは叔父さんで、一生懸命商売しようねんけど、僕が早く仕事を覚えようおもたら他の商売人の人らの手を見て教えてもらわなあかんかった。よその魚屋でいろいろ聞いたりして。ひとつでもはよ上へいこうおもてね。

1950年頃には、塩屋の小さな町に魚屋が3軒もあったそうだ。「魚一(うおかず)」、「魚市」、それから「魚友」。

阪神・淡路大震災前までは山陽の駅舎は線路の南側にあった。(『塩屋百年百景』より)

幸次郎 今の「魚一(うおかず)」の初代にあたる花岡一夫(かずお)さんがうちで働いて、その後独立したと聞きましたな。今の大将のおじいさん。おばあさんがしっかりした人で、たすき掛けして働いとった。一夫さんもなかなかのやり手でしたなぁ。「魚市」は、一時期は交番の西側と今の「田仲とうふ」の隣に2軒ありましたな。

「魚友」は仕出し屋もしていたから、法事料理や祝い料理もつくっていた。また、魚屋さんで出していた鰻の蒲焼が人気で、徹さんいわく「鰻が絶品やった。普段は別の店で魚を買いよったけど、鰻だけは幸ちゃんのとこで買うねん」。

幸次郎 魚屋いうけど、店で魚出してるだけでは売れへんからな。仕出しは早くからやっとったな。仕出しもしながら、いかなごのくぎ煮もつくりはじめましてな。小さな魚を日持ちさせる方法はないかないうて、「こんなに小さいし、すぐお腹切れてまうし、これ、どないして(どうやって)保存しよう」と母親が考えに考えた挙句、「まぁほなら砂糖、醤油で佃煮にしようか」と目分量でつくり始めたんがはじまりです。

ちなみに、当時は塩屋の浜でも競りが行われていたそうだ。今はオレンジ色の屋根ののり工場が立ち並ぶエリアで、11時から。

幸次郎 僕の知ってる時で、塩屋の魚屋2軒と垂水の7、8軒で競りをしよった。“昼市”いうてな、11時に始まるねん。そのあと今度は12時から垂水でも競り。僕はそんときは二十歳くらいやった。漁のことはそこまでわからへんけど、今は獲れへんようなイシガレイとかいろいろあがってたわけ。アカエイでも座布団みたいに大きい。それをこう、5メートルくらいの鉄の棒みたいなんにハイをつけて船の後ろからぐーっと引っ張りよったわけやな。ほな魚が引っかかるわけ。寸法が長いからアカエイとかイシガレイとか引っ掛けてな。今はイシガレイ見いひんけどなぁ。ほんでそうやって獲れた魚を競りに出すわけ。

1960年代撮影。奥の建物には、現在は「パティスリーペリーヌ」や「トランクデザイン 塩屋カフェ」が入っている。(『塩屋百年百景』より)

幸次郎少年が見た、外国人住宅地の暮らし

塩屋の御用聞きは、1970年代まで盛んに行われていたようだ。魚屋だけではなく、肉屋も八百屋もお得意さんを訪問してまわり、注文を聞いて商品を届ける。この配達文化は今でも塩屋に残っている。高齢化にともない坂道を上がるのが大変になった人が多く、商品だけではなく人も一緒に運んでいるのをときどき見かける。

幸次郎 午前中に注文を聞きに行くんです。「タイ、ハマチ、ヒラメ……」と、手帳にずらっと魚の名前を書いて。ほいで、色々と世間話をしながら奥さんにそのメモを見せて、「おはようございます、今日こんな魚が入ってまっせ、何にしましょ」「はい、サワラ3切れを刺身、スズキのあら煮を2人前。わかりました。何時頃さしてもらいましょうか。夕方5時頃、わかりました。」という風に注文を聞く。それ持っていったん店へ戻って、今度は11時から競りに出かける。だいたい14時頃にお店へ帰って、15時くらいにはまた配達に行ってましたな。そうやってずーっとお得意さんをまわるんです。

ジェームス山の外国人住宅地なんかは、奥さんが調理する材料は14時か15時には持っていく。ご主人はほとんどが社長さんで、だいたい17時頃に帰ってきますねん。だから今度は17時半頃にまた、頼まれとった品物を持っていきますねん。スズキの“あらい”なんかね、魚をうすーに削ぎまんねや、いわゆる薄造りですわ。あの時分はみななんでも“刺身”いうてましたけどね。うすーしたやつを冷たい井戸水につけまんねん、ほしたら身がぎゅっとしまりますねん。その身のしまったやつをお皿にいれて、それにちょっとぽっと氷を置きまんねや、それから大葉を添えて立派に盛り付けしてね。それを、自転車に乗って片手で持って夕方に出前に行くんです。

当時、ジェームス山外国人住宅地の大きなお屋敷には、専属のシェフや庭師、そして“アマさん”と呼ばれる女性たちがいた。この“アマさん”はお手伝いさんのことで、だいたいが塩屋に住んでいる女性たちだった。幸次郎さんは、英語がわからないからジェスチャーでやりとりをしていたとそうだ。

幸次郎 クリスマスにはプレゼントくれるねん。配達に行ったら「メリークリスマス!」いうて。そんなん聞いたことないがな。「は、メリークリスマス?」となりますわ。靴下とかチョコレートとかくれましたな。正月にお年玉いうても親から50円そこらしかもらわれへん時代やもん。コックさんやアマさんが「魚友さん、もろときもろとき!」て言ってくれるんや、せやから「ほなありがとう」て、もらうんです。

勝手口で商品を渡すから、よその台所が全部見えるからね。「ごっついなー、わしらの昨日のおかずはたくわん2切れやったなぁ。ここにはキュウリにウリのつけもん、ごっつい種類おいとう(置いてる)な、うまそうやなぁ」と思うわけ。子どもの時分やからちらっと目がいくわな、「ごっついな、やっぱりええな」という思い出がありますわな。

お得意さんといえば、ジェームス山外国人住宅地の他にも4丁目やったら浅田化学の浅田さん、5丁目の丸谷さん、あとは東塩屋(現在の2丁目)にも行っていましたな。まだ子どもの時分は、ジェームス山へ行くと「ぼんさん」と呼ばれるもんな。ぼんぼん(坊ちゃん)の、「ぼん」。

坂の上の方まで配達に行かなあかんやんか。重たい自転車を坂の下に置いといてな、籠持って、階段をぐーっと上がっててっぺんまで行くこともあったもんな。丸谷さんとこ通って、外国人住宅地の東側から入って、とっとっとっとジェームス山をのぼって、今度は35番(ジェームス山外国人住宅地No.35ハウスのこと)あたりからおりるんです。ぐーっと遠回りしていかなあかんねんもん。ハアハア息切らしながらピンポン押してな。あんときは道がガタガタやった。
自転車で行くけどもみな坂やからね、下り上りやから、平道とか坂を下るんがうれしいてね。未だにそれは覚えとう。外国人住宅地の西側の坂道を自転車で降りるとき。あれが一番うれしいんですわ。すーっと風が吹いて。
今、兵庫県自治研修所になっとるあたりは昔はガサ藪やったんやで。僕が15歳くらいの時の話やけどなぁ。ほんまに、うまいこと家建てて、道つけたなぁ思うわ。

幸次郎さんが「すーっと風が吹いて」気持ちよかったという坂道は、おそらく高尾美ノ谷線。(撮影:山下雄登、2022)

「How much?」「はい、ハマチ!」

塩屋まちづくり推進会が発行している『塩屋見聞録』という、昔の町の様子を再現した地図がある。今回の取材でも、その地図をもとに昔のことを思い出してもらったりしている。その『塩屋見聞録』にも載っているのだが、外国人のお客さんが「How much?」と言ったのを魚屋の店主が「はい、ハマチ!」と答えると「No,No,ブリ!」とやりとりをした、というエピソード。この店主こそが、幸次郎さんである。

幸次郎 外国人のお客さんが店に来るわな、「オー、フィッシュマン」って。そこでそんなやりとりしてね。あとはサーモンを買う人が多かった。カット、ボイルしてね。当時は魚を新聞紙に包むやんか。ほなちゃんとみとうわ、「オウ、ニュースペーパーだめ!」っていうねん。印刷のインクがつくから。ほやから刺身の白い紙で全部包みなおしてましたなぁ。

幸次郎さんと町の人たちとの付き合いは長いから、思い出は尽きない。遅刻しそうな大企業の社長さんをバイクで駅まで送り届けたこともある。

幸次郎 小泉製麻の社長さんのご自宅へ、朝の10時頃に御用聞きに行きましたんや。チーンとベルを鳴らして。9月か10月になったら庭に金木犀が咲いてええにおいがしてましたなぁ。いつも通り奥さんに注文聞き終わったら、だんなさんが出てきて。「魚友さん、悪いけど、塩屋駅まで乗せてくれへんやろか」と言いまんねや。よっぽど時間がなかったんやろうね。せやけど、社長さんをバイクの後ろに乗せるなんて、えらいこっちゃ!そんなんしたことないがな。単車のアクセル握りながら手震えましたわ。駅に着いたら「どうもありがとう!」て走っていった。気さくな社長さんでしたなぁ。

それからこれは、幸次郎さんが父・速男さんから聞いた話。

幸次郎 うちの親父は漁師をしとったから。フランス人のピッカートさんとスイス人のエルジンガさんいうカップルを船に乗せて、淡路の岩屋まで海水浴に行きまんねんや。2人は魚釣りも好きやったみたいです。あの時は水もきれいで、塩屋の浜でも下まで透けて見えとった。その船の上で、インスタントコーヒーやらサンドイッチやらを食べる。あの時代からインスタントコーヒーいうもんがありましたんやなぁ。その残った分を「速男さん、これどうぞ」とくれるそうなんです。タバコも、ラクダのタバコ。親父はわしがかわいいもんやから、サンドイッチなんかを食べんと持って帰ってくれんねや。肉がようけ入っとった。食べる前からよだれが出るわな。そらほんまに。想像つきますやろ。「あの人らはこんなん食べるんか、そらごっつなるわ」思いながら食べて。あの時分は食べるもんないのに。山へ行ってサトウキビむいて食べたりしとったもん。サンドイッチおいしかったなぁ、一生忘れられへんわ。

1950年代の塩屋浜(『塩屋百年百景』より)

発祥の店のいかなごくぎ煮レシピ

いかなごのくぎ煮をつくりはじめたのは、幸次郎さんのお母さん。1955年頃、ご近所の塩田さんという奥様から「小さないかなごをどうすれば日持ちさせることができるかしら」と相談をされたのをきっかけに、幸次郎さんのお母さんが獲れたてのいかなごを佃煮にしてみた。それがおいしく、塩田さんがいろんな人に配るうちに人気を呼び、保存がきくので贈答品として広まっていったそうだ。

幸次郎 いかなごの佃煮は10軒あったら10通りのつくり方がありますな。だいたいみな4キロひと鍋で炊きようけど、うちはひと鍋で2キロしか炊かへん。醤油はキッコーマン、砂糖はきざら。大体「2・3・5」いうねん。いかなご2キロ、醤油は3合、ほいでお砂糖500グラム。「2・3・5」と覚えておけばいいわけ。それで辛かったらお砂糖を足す。炊き方やな。まず醤油とキザラを鍋に入れて火をかける、お砂糖がとけて醤油が沸いてきたら、水を切ったいかなごをがさーっと鍋にいれてそのまま置いとく。ほな、生姜切ったやつを上からぱらぱらーっと入れるわな、そのまま30分、火力はきつめできーっとせなあかんねん。いかなごは小さいから、はじめから中火にしとったら魚へたってまうねん。火力でばーっとして、いかなごが鍋の中でぴーんとしたなー思って30分したら、中火にするわけ。それであと20分したら、ちょっとお鍋を傾けて、醤油がもうちょっとあるな思ったら今度、ぱっぱっぱと鍋を返すんやな。上下に横に、ぱっぱっ。焦げついたらかなわんからなぁ。ほいで、笊籬(いかき)と新聞を敷いて、その上にお皿を置いてな、そこへざっとあげるわけや。今度は真ん中をずーっとドーナツみたいな開けとくねや、ほな、汁がこう、真ん中に寄るやろ。がざーっと山みたいに置いたらあかんわけ。ほんで冷ますねん。扇風機回してもええし、うちわで扇いでもええし。ほんならぴかーっとツヤが出るねん。僕はみりんもいれる。ほんならぴかーっとツヤが出る。魚焼くときでもみりんいれんねん。わしの顔みたいにな、ツヤが出るんや。食べたら一味ちゃうわ。魚料理はみりん入れんねんで、お酒なんて入れたて意味ないで。さばいて塩焼きにするやろ、タイでもなんでもええねん、お化粧にちょっとみりんをぽとっと落としてハケでちょっと塗ってみ。ほなおんなじ食べても違うんや。この一手間で味は変わるねん。絹ごし一丁食べんのでも、スダチ絞るやろ。ほんで鰹節やネギをぱらぱらふって、生姜や。みな自然になっとうもんや。醤油だけかけて食べるのもそりゃええけどな、海のもん山のもん、土のもん。みなちゃーんと考えとるんや、人間の知恵いうんは、えらいもんやねん。

「魚友」さんの店先。その後、お店の跡地には「いかなご釘煮発祥の地」の石碑が建てられたが、石碑は2号線沿いへ移動。(撮影:松隈有紗、2001)

最盛期には、いかなごのシーズンになると、炊いたり配達するために魚友に5人は手伝いに来ていたという。春は新物としてよく売れるし、夏はお中元、冬はお歳暮と贈答品で大忙しだった。お店を閉店した2003年以降はいかなごが獲れなくなり徐々に価格が高騰している。

幸次郎 12月になったらお歳暮で売れるし、儲けもようけあった。あの頃は夢の中でもいかなごに追いかけられとったもん。店閉めて7、8年くらいしてから一気に高なった。わしが商売し始めた頃は1,500円が一番高かった。2、3日したら1,200円になって、5、6日経ったら1,000円、10日目に800円くらいになる。そんなんやってん。今(2019年)は4,000円や。いかなごのカゴいうたらな、ひとカゴが25キロあるねん。せやから1キロで計算したら、4,000円やったら10万円。これ、漁師が儲けとるんちゃうねんで。獲れる量が少ないからこないなるねん。いかなご漁は、親船と小船あわせて3艘いる。最低6、7人は人手がいるわけ。今は塩屋は2軒だけいかなご漁に行きようわ。けど、東の駒ヶ林のほうが漁に行きような。ほんでさらにな、4キロ炊いたら2キロになる。半分ちょっとまで減る。そないで、小分けしてやで、宅急便やらで送るのにまたお金かかる。そんなんや、そりゃ、高うて買われへん。あとは、70歳、80歳のおばあさんもこれからもっと歳とって、つくれる人がいなくなってきてますわなぁ。

ちなみに、長田の駒ヶ林も「いかなごのくぎ煮発祥の地」と言われており、石碑も立っている。幸次郎さんから聞いた話によると、以前、あるテレビ番組で塩屋と駒ケ林どちらが本当の発祥地なのかを決する特集があったらしい。ゲスト出演した幸次郎さんだったが「どっちが先でもよろしいやん」と言って握手して帰ってきた、といういかにも幸次郎さんらしいエピソードもある。

思えば、私が始めて幸次郎さんからお話を聞いたのは、『しおやカルタ』の「いかなごくぎ煮発祥の地はゆずれません」という句の解説文を幸次郎さんに依頼したのがきっかけだった。その話の中にはいろんな人間関係や小さな出来事が詰まっていて、これはもっと間口を広げて話を聞かねば、と思ったのだった。今回はお商売の話が中心になったけれど、どうやらいろんな遊びを知っておられるようなのでその辺の話もまたくわしく聞いてみようと思う。

塩屋カルタ「いかなご釘煮 発祥の地は ゆずれません」の札は、「魚友」さんがあったからこそ生まれた一句。解説書には幸次郎さんのエピソードを掲載。

*追記
松本幸次郎さんは、記事の公開を待たずに2022年にお亡くなりになりました。もっとお聞きしたいことがありましたが、生前にお話を聞くことができ、私たちにとってもかけがえのない思い出となりました。幸次郎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。