瀬戸内寂聴が年若い駆け落ち相手と「普通の男女の関係になった」『場所』・塩屋

2023.11.30

『場所』は、2001年に出版された瀬戸内寂聴の自伝的小説である。彼女自身の人生における記憶と結びついた場所を80歳にして改めて訪ね、過去を再構築する。

以下、ウィキペディアの瀬戸内寂聴の経歴によると、

東京女子大学在学中の1942年に20歳で酒井悌(1913-1992 徳島市生)と見合いして婚約。1943年2月に結婚し、10月に夫の任地北京に渡る。1944年8月1日、女の子を出産。1945年6月夫が召集、8月終戦と共に帰宅。1946年、8月に一家3人で徳島に引き揚げ、夫の教え子の文学青年と不倫、夫に打ち明ける(晴美25歳 夫34歳 相手21歳)。1948年、夫と3歳の長女を棄てて家を出て京都で生活。

すでに波瀾の20代である。ちょうど、最後の頃のことが書かれている「油小路三条」より引用。

「恭子の部屋の三人暮しを見かねた凉太が思いついたのが、阪神沿線の塩屋にいる同文書院の友人だった。結核の療養をしているその友人の家は旧家で、未亡人の母と一人息子の二人で住んでいた。
どういう話し合いをつけたのか、永沼というその凉太の友だちも、上品なその母親も、離れに私を置いてくれ、いつまでも居ていいといってくれた。
海辺の砂浜に坐りながら、凉太は、
「こうなった以上、あなたは自分の足で立ち、まず自立しなければ」
などと観念的なことを説きはじめた。私は凉太に裏切られたとも肩すかしを喰らったとも思わなかった。現実に私の家出という事実を受けとめてみて、凉太に突きつけられたのは、自分一人の肩にかかっている五人の家族の暮しだったのだ。
私は凉太がいじらしくなるだけで、実際、私は自立してみせなければ、夫にも娘にも父にも合す顔がないと思いこんでいた。」

「阪神沿線の」は大いに引っかかるが、徳島の出身で関西の私鉄事情にさほど詳しくなければ、山陽電鉄も乗り入れによる阪神電車の延伸上にあるから、間違った理解と一刀両断の下に切り捨てるものでもないであろう。瑣末なことに引っかかってないで、その塩屋で、その後何が起こるのか、読み進める方が賢明だ。

「二度目に凉太が塩屋を訪ねてくれた時、私たちははじめて、普通の男女の関係になった。
町外れのわびしいホテルの一室だった。海の響きが枕に聞こえていた。ことの後で、私たちは互いに失望していることを、決して相手に悟らせまいと心に汗をかいていた。
凉太は童貞だった。夫との初夜の時、夫も童貞で私も処女だった。今、私は既に子供を産んだ女であり、夫との性愛に馴れていた。
後頭部からさあっと血の引くような感じをつとめて認めまいとして、とにかく終わった後で不安気な凉太を私はやさしく引きよせ抱きしめた。
「大丈夫よ」
凉太はその言葉をどう聞いたのか、はにかんだ少年じみた表情をして清潔に笑った。」

「町外れのわびしいホテルの一室」っていったいどこ?
海の響きが枕に聞こえるくらい海に近いところになると、明治末期には海辺にオリエンタルホテルが建っていたことが知られている。戦後の占領期、ジェームス山は進駐軍に接収され、線路沿いには神戸ベースから軍人達が踊りに来るダンスホールがあったというし、1948年時点で塩屋の海沿いにホテルがあった可能性はある。離れにいつまでも居ていいといった寛大な「結核の療養をしている永沼とその母」の家の特定は(子孫をおもんぱかって仮名の可能性もあり)困難だが、ホテルの方は特定できるかもしれない。でも、特定してどうする? 25歳の瀬戸内晴美が夫の教え子である凉太と家出をして、その後彼等はそれぞれ別の道を歩むことになるが、その決定的な別れの原因となった行為の場所として選ばれたのが塩屋だった。それだけで十分。