『お家さん』こと鈴木よねは塩屋に住んでいた(ことがある)。

2023.11.30

出版元の新潮社のウェブサイトには、「大正から昭和の初め、日本一の年商でその名を世界に知らしめた鈴木商店。神戸の小さな洋糖輸入商から始まり、樟脳や繊維などの日用品、そして国の命である米や鉄鋼にいたるまで、何もかもを扱う巨大商社へ急成長した鈴木──そのトップには「お家さん」と呼ばれる一人の女が君臨した。日本近代の黎明期に、企業戦士として生きた男たちと、彼らを支えた伝説の女の感動大河小説。」と要約されている。鈴木商店の立役者、鈴木よねの生涯をフィクションを交えて物語る『お家さん』。

この本の中で塩屋が出てくるのは、下巻の半ばに一カ所と末尾で数カ所。
須磨の鈴木家の大豪邸(現在、跡地は三菱重工の社宅となっている)に関連付けて、鈴木よねの元夫の娘であり、よねに教育され、鈴木商店の敏腕な手代と恋仲になるが悲恋に終わり、よねの息子の妻として迎えることになる女性(すでに相当複雑な人間関係になってしまうので、当然実在の人物ではなくフィクショナルな登場人物である)棚倉珠喜の観察になる以下の描写。

「近隣の塩屋やジェームス山には、珠喜の知らないお屋敷がふえていた。この造船景気で、派手にもうけた海運業者がさかんに別荘を建て始めたのだ。なにしろ、定期船の海上運賃やチャーター料など、開戦前の十倍、二十倍にも上がっており、まさに船主には笑いが止まらぬ状況だったのだ。」

これは、第一次大戦(1914〜1919)の造船景気の描写で、当の鈴木商店の絶頂期が1918年8月の米騒動で焼き討ちに遭うまでと考えると、「ジェームス山」の開発が始まるのは1930年代のことなので、外国人の屋敷は建っていただろうが、少なくともこの名称はまだ存在していないときの話である。

塩屋の地形や町並みで唯一描写されるのは「坂道」。やはり珠喜の回想シーンとして。

「あれは、浜風の吹く、沖がぼんやり霞んだ日のことでしたかなあ。たまたまわたくしがおよね様のご無聊(ぶりょう)をお慰めに上がりました時、塩屋の坂道を上がってくる金子夫人、お徳様とご一緒になったことがございます。
今は一人の女中もおらん家では、さぞご不自由なことと、時々昔のようにお茶を淹れてさしあげるんを、およね様はたいそう喜んでくださります。お茶はもちろん、いまだ台湾から取り寄せる高山茶。茶器は、お気に入りの景徳鎮だす。(中略)海風が心地よく吹き込んでくる縁側で、お二人、まるで長い夢の余韻を分け合うように、時を気にせずお茶を飲んでおいででした。」

塩屋には、ジェームス山の外国人の家で働いていた人達によって広められた、と、まことしやかに語られる紅茶文化があるが、ここで「およね様」こと鈴木よねが愛飲するのは台湾茶。

さて、波乱に満ちた人生を送った鈴木よねが塩屋の隠居宅で息を引き取るのは昭和13年(=1938年)。

この頃には、ジェームス山の外国人住宅も建ち並んでいたことだろう。鈴木よねは1852年生まれだから85歳の大往生である。「塩屋のお屋敷」についての詳細はあまり触れられていないが、塩屋住民としては、先年道路の一部拡張工事のために取り壊されるまで高く聳えていた鈴木家のコンクリート蔵でも出てくれば、より真実味のある描写になったのにな、とやや残念に思う次第。