少年Hに無上の喜びをもたらした塩屋

2023.12.09

舞台美術家の妹尾河童が自身の少年時代を書いた『少年H』。歴史的に正しくない記述がある、という激しい批判も一部ではあるようだが、自伝的小説と考えれば、多少のフィクションが含まれる点はとりたてて問題も無いように思う。
下巻の終盤、絵の好きな少年Hがデッサンを見てもらうために画家・小磯良平を訪ねるところで初めて塩屋が出てくる。以下に引用する。

「Hは、二中を卒業できるかどうかの心配より、早く絵の勉強だけをしたかった。
Hはいいことを思いついた。小磯良平先生を訪ねて、デッサンを見てもらうことにした。
小磯画伯の家は、空襲で焼けてしまったから、今は塩屋に仮住まい中だと聞いていた。住所を正確に知らなかったが、とにかく須磨の西隣の塩屋まで行ってみることにした。
塩屋駅で降りて、交番で聞いたが、「さあ?わからんなあ」といわれてしまった。駅前の本屋で聞いたら、「先生の家へ本を届けてるからわかるよ」と教えてくれた。
Hは描いてもらった地図を手に、ハアハアいいながら丘の上の一軒家に向かって走った。玄関の戸を開けて、「こんにちは」というと、奥から小磯先生が出てきて驚いた顔をされた。
顔から汗を吹きだした少年が、誰の紹介状も持たずにやってきて、立っていたからだ。
「神戸二中の三十六回生、妹尾肇といいます。先生に絵を教えていただきたくて参りました」と大声でいった。いいながら、教練のときのような口調ではまずかったかなと心配になった。
「ぼくは弟子というのはとらんことにしてるから、弟子は一人もおらんのや。でもまあ、絵は見てあげるから見せてごらん」といってもらえたので、Hはホッとして、丸めて抱えてきたデッサンを玄関の板の間に拡げた。小磯先生は、しばらく黙ってその絵を見下ろしていたが、「ここは狭くてアトリエのような部屋がないんやけど。君さえよかったらおいで。ぼくは京都の学校へ教えに行ったり会合があったりで、留守にすることもあるけど、君は留守に来て描いてもええよ」といってもらえた。Hは夢のようだった。次に来る日を約束して玄関の戸を閉めてから、「わーっ」と叫びながら駅までまっしぐらに走った。丘から見下ろした海は、波がキラキラ光っていた。海峡をへだてて横たわっている淡路島もすぐ目の前の近さに見えた。Hははしりながら「生きていてよかった」と思った。こんなに嬉しいことは今までになかった。」

少年Hの生涯で一番嬉しいことが起こったのは、塩屋でのことだったのだ。本当に喜ばしい。

駅前の本屋に教えてもらった「丘の上の一軒家」は厳密に特定されていないが、小磯良平は西ノ田公園の近くの瀧○家の関係先に疎開していたようで、現在の地名ではおそらく、ジェームス山の西の塩屋町6丁目あたりのどこか、だったのではないかと考えられる。疎開先として選ばれた理由は定かではないが、ジェームス山が空襲を受けないという都市伝説はあったようだ。(塩屋の古老の中には、戦時中ジェームス山からチカチカと光線が放たれているのを見たことがあるという人までいて、彼はそれを外国人が味方に合図を送っていたのだろうと話していた。)

小磯良平の手になる《塩屋風景》という絵があることが知られている。浜辺に並ぶ船の帆越しに海が見える高台の庭の木陰で裁縫をする婦人とその椅子の背に寄りかかる少女が描かれている。

塩屋の浜辺を西側の丘の上から眺め下ろす構図となっており、今の塩屋町6丁目辺りからの視点であることを補強する。Hはこの場所へ塩屋駅から歩いて行ったということであるが、山陽電鉄の滝の茶屋駅が最寄りであろう。交番で知らないといわれたのも道理かもしれない。

ちなみに、ここで出てくる本屋とは違うが、今年(2023年)の初夏まで、山陽塩屋の駅前には本屋があった。長く塩屋で営業を続けていた本屋だったが、ここに至って閉店してしまった。しかし、しばしの無本屋期間を経て、2023年11月3日に舫書店という本屋が塩屋にできた。これまた喜ばしいことである。

さて、『少年H』で私が注目したいのは、塩屋からは少しだけ東へずれるが、一ノ谷の《紀元二千六百年の塔》に関する記述である。

「家の近くの電車道を、馬車が御影石を積んで西のほうへ運んでいくのを見たHは、どこへ行くのかと思ってついて行った。Hは自分が午年生まれということからか、馬が大好きだった。馬車は、須磨浦公園に辿りついた。馬方の小父さんは、馬車の後ろにずっとついて歩いてきた子どもに興味をもったのか、馬の汗を拭いてやりながら、「この石はなあ、紀元二千六百年を記念した塔を建てる材料の石や。御影から運んできたんやけど、もうすぐここにデッカイ塔が建つぞ」と教えてくれた。Hは、御影で採れる石だから“御影石”というのか、とはじめて知った。(中略)一ヶ月ほどして、また小父さんに会って乗せてもらおうと、林君を誘って須磨浦公園へ行ったが、塔はほとんど完成していた。だから石運びの輜重兵の小父さんには会えなかった。
高く聳える塔を見上げると、石の中央に“八紘一宇”という文字が縦に彫ってあった。
工事をしていた小父さんが、「“八紘一宇”は“世界を一つの屋根の下に入れる”という意味や。それは“日本が中心になって世界を一つにまとめる”ということなんや。“八紘一宇”いう字を覚えとくとええよ」と、教えてくれた。」

この塔、現在は「みどりの塔」と呼ばれていて、彫刻家・新谷英夫による衣をたなびかせたブロンズ女性像と陶板がかかげられている。塔をコの字形に石塀が囲み左右の塀の両端の立派な台に二つの地球儀が据えられていて、西側の球体が地震で下に落ちたため、阪神大震災のメモリアルモニュメントにもなっている。私自身、無邪気にもこの塔は「みどりの塔」と信じて疑っていなかったが、木下直之『ハリボテの町』(1996)を読んで、その経緯を初めて知った。以下引用。

「(1940年に「紀元二千六百年」を祈念して建てられた塔は、)昭和二十九(1954)年以後は、その上にちょこんと裸体彫刻を載せて、「神戸市の発展飛躍」「希望と平和」(台座の言葉より)を表すことに変えたのである。なるほど、裸体彫刻を載せるだけならこんなに大きな台座は必要ない。」

注意深く見ると、確かに、このあまりに立派な台座およびそれを囲む石の塀の部分には、皇居や伊勢神宮の遙拝の方向なども記されているし、台座の裏手奥の石塀には、神武天皇の東征のレリーフが彫られていて、昭和十六年といった文字がコンクリートで塗り込められているのが見て取れる。皇紀(1872(明治5)年に明治政府が、神武天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年とする紀年法)二千六百年(昭和15・1940)年の記念に造営されたものを、戦後に神戸で開催された全国植樹祭に合わせて、台座上に聳えていた八紘一宇の文字の塔を女性像にすげ替えたものなのである。戦争から平和へ、そして震災遺構ともなって生きながらえるモニュメントという変化自在なものについて考えをめぐらせる機会を与えてくれる。