海水浴の町・塩屋を認識させる『早春』

2023.12.09

「これが一ノ谷です。それからこっちの方へかけて須磨浦公園です。この辺はいろんなものが採れましてね。山桃とか椎茸みたいなものとか、ようけ採りに来ました。それから塩屋。ここに浜寺の水練学校の分校がでけたんです。一年きりでした。流行らないんですわ、ここは便利が悪くて。一年きりで止めになりました。私たちは四人は垂水でおりて、次に来る電車を待つ。目の前に淡路島が見え、大きなフェリーがゆっくりそちらに進んで行く。」

上記の一節は、85歳になるという叔父がバスガイドよろしく電車の車窓ガイドをして著者夫妻の神戸案内をしている最中の描写。話し言葉と情景描写が入り交じった独特の文体で物語が穏やかに進んでいく。明治39(1906)年にはじまって今も続いている「ハマスイ」こと大阪毎日新聞浜寺水練学校の分校が明治41(1908)年に塩屋にできたという。この叔父の話として、この本には、都合3回このことが書いてある。叔父にとって、そしてそれを書き留めた庄野潤三にとって、よほど強調されるべき史実だったのだろう。
『早春』は、著者である庄野潤三自身とその妻が神戸を訪ね、須磨育ちで芦屋に住む叔父の生い立ちを聞き、神戸の町を案内してもらい、また、大学の同級で、毎日新聞社に勤める太地一郎と邂逅した際の会話を軸にした小説である。その中で、懐かしさを伴った過去の出来事として、水泳が不得意であった叔父が水練学校へ通ったという話が繰り返し出てくるのである。

「お前、泳がんかーい」といわれて、仕方なくみんなの真似をして、顔をつけて足をばたばたやってみるけど、水を飲むばかりで前へ進まない。「それで私、中学へ入った年、ちょうど浜寺に毎日新聞社の水練学校が出来たもんですから、すぐに行ったんです。ちっとも泳げなかったから。これからひとつ泳ぐことを教えて貰わないかん思うて」叔父が夏休みに靱の店に泊まって浜寺の水練学校へ通ったという話は、前に聞いている。一年で入って、二年で卒業、その翌年からは助手として傭われて五年まで続けた。「その間に塩屋に分校が出来て、一年だけそっちへ行きました」「何年の時ですか」「三年です。須磨のひとつ先ですから、通うのに楽でした。その年だけで廃止になりましたけど」

須磨から浜寺へ通うのはかなり遠いため、靱(うつぼ)の店に泊まって通ったということだが、その間に塩屋に分校が出来たことがあったのだという。しかし、「便利が悪いから」一年で廃止になった塩屋の水練学校。須磨の海浜公園付設の海水浴場が開設したのは1948(昭和23)年のことだというが、1923(大正12)年に初版が発行された田山花袋の『京阪一日の行楽』にも「今はこのあたりも非常にひらけた。海水浴場なども沢山に出来た。現に兵庫電軌の停留所に『かいすいよく』といふ名のあるほどであつた。」と出てくる。
確かに、今の山陽電鉄の前身である兵庫電気軌道の夏だけ開業する臨時駅として、その名も「境が浜海水浴」という駅が1913(大正2)年にできている。古くより白砂青松で有名な須磨浦だが、1889(明治21)年に山陽鉄道須磨駅が開業して以来、居留地で働く外国人や旧財閥など財界人たちの邸宅や別荘が建ち並ぶようになる。鉄道の延伸に伴い、やや遅れて、明治末期に主に外国人の海辺のリゾート地として開けた塩屋の海岸だが、海水浴場は塩屋から須磨へと徐々に東へと移動しているようだ。

塩屋の海水浴場を写した絵葉書が数枚知られている。「大阪毎日新聞神戸支局主催しほや海水浴場」のハンコが押されているところから、やはり毎日新聞がプロモートしたものだったようだ(消印は明治43(1910)年)。

続いて、その毎日新聞社に勤務して定年を迎えた太地一郎との対話の中でも、再びその話が繰り返される。その前にジェームス山についての記述があるので、そこから引用する。

「外国人にとって神戸は非常に住みよい町だという話をするうちに、今日、あなた方の行かれた舞子と須磨、あの中間に塩屋というところがあると太地。ああ、通りました。塩屋の山の上にはいまでも外国人の家が多いですよ。塩屋のジェームス山といってね。ジェームス山?あそこを住宅地として開発した英国人の貿易商の名前を取ってそんなふうによばれてるんだけど、古くから神戸にいる人にはなつかしい名前でね、僕らも子どもの頃、ジェームス山と人が話しているのをよく聞いた。カメロン商会のジェームスという人の息子さんが昭和七年ごろからここに外国人向けの賃貸住宅を五十軒ばかり建てたのが始まりでね。それより前にも英国人が塩屋にかなり住んでいて、カントリークラブを作っていたらしいから、六甲と並ぶ避暑地として割合に早くから彼等に目をつけられたんだろうね。
君は行ったことはある?ある。海軍から帰って大阪の新聞社に勤めだした頃、一度、仕事のことで外人クラブのマネージャーに会いに行ったことがある。夏の暑い日で、そこへ上がる坂がまた急なんだ。汗をふきふき登って行ったら、プールのそばや芝生で甲羅を干している連中の姿が見えてね。須磨浦を見下ろす高台のいい場所にあるんだ、それと外人住宅へ入る坂の角のところにライオンの石像があったね。あれはいまも残っているんじゃないかな。(中略)
家内の叔父が神戸一中にいる時、五年間、浜寺の水練学校へ通ってねというと、あれはうちの社でしょうと太地。ええ。その間は靱の店の方に泊まってね。二年で卒業して、あとは助手になって教える方にまわったんだけど、次の年に塩屋に分校が出来て、そっちへ行ったんだそうだ。あまり生徒が集まらなくて、一年で止めになった。じゃあ叔父さんは水泳の達人だな。卒業試験があって、抜手だとか立泳ぎだとかいろんな泳法をやらされるらしい。遠泳は泉大津から大阪湾を横切って真向かいの魚崎まで、朝の八時ごろ出て三時頃に着くんだそうだ。・・・・・・浜寺の水練学校といえば歴史があるからね、あれで免状を貰うと立派なものですよ。それで思い出したけど、塩屋に僕の上役の一人が住んでいて、夏になると海水浴に呼んでくれるんだ。社へ入りたての頃だったけど、ジェームス山はその人の家から川を挟んで西の丘にある。海水着のまま家を出て、山陽電車と国鉄のガードをくぐると浜でね。夕方、腹を空かして戻ると、奥さんが昼網で取れたての魚をビールと一緒に出してくれるんだけど、うまかったなぁ。海もきれいだったしね、まだあの頃は。」

泉大津から魚崎までの7時間の遠泳!には度肝を抜かれるが、ジェームス山の往時の様子も描写され、塩屋谷川をはさんで東側にあった太地の上役の家の海水浴後の夕飯は昼網の魚とビール!・・・・・・このままフェードアウトするのがよさそうだ。