
かつて神戸に存在した鈴木商店。創業者鈴木岩治郎は1894(明治27)年死去するが、妻ヨネが番頭の金子直吉に事業を委任し、経営を続ける。大正前期にはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、貿易年商が三井や三菱を凌ぎ、日本のGNPの一割を売り上げる総合商社となったが、1918(大正7)年米騒動で栄町通にあった本店が焼打ちに遭い、次第に時代の趨勢に乗れなくなって1927(昭和2)年の金融恐慌の煽りを受けて破綻し、事業を停止する。
城山三郎のノンフィクション小説『鼠』(初出は『文學界』昭和39年10月〜41年3月号)は、焼打ち事件を再調査し、当時鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、大阪朝日新聞による捏造報道による風評被害であり、鈴木商店と対立していた三井と朝日の共同謀議という仮説を立てている。
鈴木ヨネの右腕であった「金子直吉という一人の人間によって演じられた鈴木商店の急成長と急破綻は、史上に例を見ないものであり、いまもそこから得る教訓は多い」(城山三郎・1988年新装版の帯の文句)と謳い、金子直吉の生涯に焦点をあてつつ、彼自身が体現する明治の叩き上げの土佐派と近代的な経営を目指す高商派との乖離が鈴木商店の破綻に繋がったとしているが、事件の周囲に直接関わった人々の生の声を拾い集めている点でその信憑性は高い。
Wikipediaの「鈴木ヨネ」の項を参照すると、
「鈴木商店破綻後に須磨の大邸宅から移り住んだ塩屋で短歌を詠み、草花を育て寺院を巡る等の穏やかな晩年を送り、1938年(昭和13年)5月に死去した」とある。(ウィキペディアまでもが塩屋に言及しているとは!)「お家さん」と呼ばれた鈴木商店の女主人が暮らした塩屋の邸宅に30代の城山三郎が取材に訪れたときに住んでいたのは、その一代下った未亡人、ヨネの次男、岩造の妻であった。
以下引用
未亡人は、須磨海岸の西、塩屋に住んでいる。
神戸市もそこまで行くと、海も山も色をとり戻し、空気にも黄金の色がついている。国鉄駅より七・八分。まだ潮のにおう坂の途中に、その家がある。
米騒動の数日前に竣工祝いのモチマキをしたという家。縁起をかつぐ人から新築は不吉だと言われ、わざと古材を使ってつくったものであったが……。
窓の外には、緑が溢れている。座敷の壁には、細縁の眼鏡、やや怒ったようなヨネの写真————。
海と山が色を取り戻し、空気が黄金色の塩屋!なんだか桃源郷か夢の国のようではないか。それに加えて、「新築は不吉」といわれ、「古材を用いてつくった」鈴木邸、まるで塩屋で古材が再利用され、中古物件のリノベーションが盛んになることを予言しているかのよう。
城山三郎が訪ねた当時その家に暮らしていたヨネの三男、鈴木岩造の未亡人、尉(やす)子。『お家さん』を読んで、ここに暮らしたヨネの晩年に自然と重ねられてしまうのだが、
いまは当時のお家さん以上の高齢となった岩造未亡人は、いたましそうに言った。物言わぬ人であっただけに衝撃も一入であったろうと言わぬばかりであった。
未亡人自身————もはや老婆というのがふさわしいかも知れぬが————言葉少ない人であったが、それでも、
「米騒動といえば、つい先頃わたしは……」と、苦しそうな顔になった————。
高校一年になった孫が、ある日、学校から帰ると、いきなり言った。
「おばあちゃん、うちの鈴木商店って、米の買占めやって、ひどう、うらまれたんだってね」
「え」
老婆は動顛した。五十年静かに坐ってきた座をいきなりひっくり返された気がした。
「そんなはずはありませんよ」
「だって、焼打されたんじゃないか」
「あれは、まちがいです。まちがって……」
「どこにその証拠がある。どこにもそんなこと書いてないよ」
学校で習って来たという孫の澄んだ眼の色を前にしては、老婆はどんな説明も空しいことを知らされた。
それに、説明するとしても、何をどう……。いまとなっては、その材料も。いや、当時からも鈴木の家の者には……。
直吉も誰も、そんなことをするはずがない——そうした強い信頼をどう伝えたらよいのか。
いささか……と——が多く、意味が取りづらい部分もあるが、いわば、ヨネの曾孫であるこの「塩屋の高校一年生」の誤解をとくために再調査を進めて書かれたとも言えるのが本作。
「全力を出しつくす思いで取り組むとともに、作品の構成などにも思い切った試みをしたつもりであり、きわめて愛着があり、またノンフィクション文学の先駆となる作品であったと、ひそかな自負を抱いている。」(1988年新装版の帯の文句)と城山自身が吐露する力作。今は後期高齢者となっているであろう鈴木商店の子孫の昭和39年の「塩屋の高校一年生」に響いたことを願う。


